世間の価値観って何かしら。

僕は世間の価値観が嫌いである。なぜなら、世間の価値観が自分の伝えたい気持ちを邪魔するからだ。ただでさえ、自分の考えていることは他人に思ったように伝わらないのだ。これは、僕の伝え方に問題があるのだろうか、いや、きっとそうなのだ。しかし、そうはいっても人は物事を判断する時に自分の価値観を知らず知らずのうちに世間とか社会といったよく分からないものに随分と引っ張られているのではないかと思う。とにかく、僕は世間の価値観、とりわけコンプレックスや偏見といった類いのものから生じる価値観が嫌いである。

僕は、小学校高学年から中学生を卒業するまでの頃、怠惰でどうしようもない人間であった。だらしがないし、些細なことで気を減らすような人間だった。だから、学校に通うだけで信じられないほどのストレスだったのだ。当然、容姿に関してもだらしがないような様に太っていたので見た目のことでよく馬鹿にされもしたのだ。ひどい奴は、僕の容姿を豚と表現したりもした。この言葉は僕を今でもある意味で卑屈にさせている。このことで言いたいことが一つある。侮辱の言葉は言われた方はいつまでも覚えているが、行った方はたちまち忘れるということだ。10年以上前のことであるが、僕はいまだに自分の見た目を侮蔑されたことによって心の奥底に自分を認め辛い気持ちがある。それなのに、僕が高校を卒業した時に侮蔑のことばを投げかけた奴はそんなこと全く気にかけていない様子だったのだ。もしかしたら人は醜いのではないかしら。ここ最近は、僕の容姿を褒めてくれる人が現れて始めたように思う。男にも、褒めてくれる人があるし、女にも僕に抱かれて喜ぶ人もあるのだ。一体、何が正しいのかてんでわからない。だいぶ脱線したから話を世間の価値観に戻したい。世間では、くっきりとした二重まぶたで目が大きいひとが「良い」顔だと日常の至る所、つまり電車の広告やテレビのCMで吹聴が行われている。僕にはこれは誰かの価値観であってそれが唯一の正解のような顔をしていて、みんなが虚像を信じこまされているだけだと思う。僕も弱い人間だからそれが正解なんじゃないかと思った、いや、思わされたことは幾度となくある。しかし、心の奥底ではそんな顔が正解だなんて思ったことなんてないのだ。女性は美を追いかける時その強烈な正解の虚像に付き纏わられているようにみえるのはひどく勿体のないことだと思う。誰かが用意した価値観に自分が不適合だったとしても自分を認めない必要なんて全くないのだ。
だから一体全体、世間の価値観とは僕から自由を奪うものだとしか思えないのだ。

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