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「〇〇のせい」が「おかげ」に変わる日

過去を振り返ってみたとき、"因果関係" があるものとないものがあることに気づいた。

たとえば、大学時代の手痛い出来事。

そりゃあ、もう一度戻って体感し直すなんて嫌だけど、それらは完全に過去の古傷になって、今ではもう笑い話にだってできる。

だけど。

あれよりずっと前なのに、子どもの頃の出来事となるとそうはいかなかったり。

「あのときあんなことがあったから、私は今でも人が怖いんだ」とか。知らず知らずのうちに、原因と結果の関係が固く結ばれる。

なんなら、その因果関係を見つけることこそが「自己分析」なのだと、思ってきたような気さえする。

なぜ一部の出来事だけ、いまだに「〇〇のせい」と呼んでしまうのだろう?

そんなことをぼんやり考えていたら、ある日ふと腑に落ちてきたものがあった。


私は今もまだ、あの日の言葉を飼っている


noteで何度も書いてきたけれど、昔母に言われた「親子でも、言葉にしなきゃ分かるはずない」という言葉。

当時の私には心の中の何かが崩れ落ちてしまうほどの衝撃で、もう二度と同じ目に遭いたくなくて。

遭いたくないから、遭わないために、私は自分に言い続けてきた。「言葉にしなきゃ伝わらない」と。

伝わってほしかったんだ、最愛の母には。

だからね。たぶん因果関係が結ばれている過去は、過去になっていないのだと思う。

それは自分の心の中で何度も再演され、二度と言われたくない言葉さえかけられ続けている。

皮肉にも自分自身を守るために。

"因果関係" があるものとないもの。
その差をひとつ見つけた。

それは「〜のせい」と思っているか、「〜のおかげ」と思っているか。

「おかげ」と思えるほど回復してきたなら、ほんの少し心は軽くなる。「過去」にできる。

だから時々、点検してみるといいのかもしれない。


それはまだ握りしめていないと、怖いもの?


握りしめ続けてきたものほど、「おかげ」と思える何かを見つけると、グーッと目頭が熱くなる。

今までその言葉を飼うことで、傷つきながらも守り続けてくれた自分。そして、乗り越える強さを持てた自分に、心から「ありがとう」と言いたくなる。


私、お母さんに「伝わるわけない」と言ってもらえたおかげで、こんなにも自分の想いを言葉にする力が身についたよ。


いつかあなたに、伝わりますように



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