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【カサンドラ】 45. 茜空

石油タンクを持ち込み、給油ポンプでストーブに灯油を入れている背中が
あと数十センチの位置に迫ったところで、父親が振り向いた。
私の顔を見て、一瞬皺だらけの顔を綻ばせたが
右手に握りしめた柳刃包丁に目をやると、見たこともない怯えた表情に急変した。
強く息を吸い上げる音が聞こえたところで、
私は一気に右腕を振り上げた。
すると咄嗟に立ち上がった父にその腕を強く掴まれ、胸部に届かず
刃先が父親の首元を浅くかすめた。
その衝撃でバランスを崩した際灯油タンクが倒れ
そのまま仕事用の大きなハンドプレス機に頭を打ち
横向きに倒れたまま動かなくなった。

部屋の入り口方向へ振り返ると、エプロン姿の母親が立っている。
目をいっぱいに見開き、数秒に一度声にならない擬音を発しながら唇を震わせているが、そこから動くことができないようで、
私がゆっくりと詰め寄っても、一歩たりとも後退りをしない。
私は左手で胸ぐらを力いっぱい掴んで吊り上げ、母親の顔を見降ろした。
母は、10センチほど高い位置にある私の瞳に視線を合わせると、

僅かに表情を緩めた。

私は一気に息を吸い込み、喉に力を込めて振り上げた右手の包丁を母の首元に埋めた。
私と目を合わせたまま母は、薄く笑みを浮かべ
床に崩れ落ちた。
深く食い込んだ刃先を抜くと、脈に合わせて赤い液体が噴き出し
そのリズムに合わせるように、何度も何度も母の身体を刺した。

私は激しく肩を上下させながら、倒れた母の身体を抱き寄せると
その肉体に包まれるように自分の身体を倒し、
母の腕を自分の背中に回した。
先程私の服のポケットから飛び出した使い捨てライターの周りは既に、暖かで優しいオレンジが揺れている。
懐かしい灯油の匂いが立ち篭める中、母に抱きしめられ
私は、長い間探し求めていた何かを、やっと手に入れたと思った。

茜色の柔らかい炎が、3人を包みこみ
この世界に来る前の私たちへと戻ってゆく。
私は穏やかに瞼を降ろし、母に抱かれながら
子宮へと還っていった。



さっき、僅かに微笑みながら貴女は私に
「ごめんね」と、言ったのだろうか。

聴こえるか聴こえないかの貴女の声が、最後に耳に残った。




もし、生まれ変わることができたら
また、家族になりましょう。

今度は私が、人生を懸けて
2人を愛します。


KARAJAN/Joseph-Maurice Ravel -BOLERO

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