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中身の詰まった自分の言葉を使う

ひさしくnote書いてなかったので、景気づけ?リハビリとして勢いで書いてみる試みです。

最近改めて実感したのだけど、わたしはどうやら言葉にすごくこだわるたちのようです。

noteをガリガリ書いたり、対話がベースの対人支援の領域、最近たのしくやっている雑談も、結局のところぜんぶコミュニケーションです。言葉を介してつながる行為。

自分のポリシーとしてはっきりあるのが、「中身の詰まった自分の言葉を使う」ということ。

自分の言葉で話す

巷には耳ざわりのよい言葉、なんかすごそうな匂いをまとった言葉がたくさんあります。それらを軽々しく借りずに、手ざわりの分かる自分のものになっている言葉を用いて話したい。

人生、魂、エネルギー…まあなんでもいいんですけど、それってどこから出てきましたか?自分とつながっているものですか?なぜそれを選びましたか?みたいな問いに答えられるかどうかが大事。
(理由をいちいち言語化しないと、ってよりはしっくり来てればよいスタンス)

コーチング的な文脈で言えば、どんな問いも、フィードバックも、中身の詰まった自分の言葉をきちんと探してきて、場に置きたい。
中身が詰まっているか、そこに手ざわりはあるのか、常に問うていたいなと。

とは言えセッションかどうかに限らず、場は生きものなので、使ったことのない表現を使うこともままあります。ていうかいつもそう。

借りてくることもままある

その中で借りてきた言葉を使うことももちろんあります。場にいるひとの言葉・語彙を借りるのはよくあることです。その場合でも、いま使っている言葉が借りてきた言葉なのか、自分の言葉なのかの線をちゃんと引いていたい。

きちんと意味するところが自分でしっくりきてはじめて、他者由来の言葉を自分から出しているような気がします。なんなんだろうなあ、これ。
実はこのnoteのタイトルも自分なりにしっくりきた表現なので輸入したものが混じってたりします。

しっくりくる前の借り物の言葉を自分のものとして使うのはけっこう怖いことで。
ごちゃ混ぜになっちゃうと、自他の境界線もあいまいになるし、いつのまにかスカスカになっているのに気づけなくなる。

みちみちのプリンみたいな

ノリは軽くラフでゆるくいたいけど、言葉はていねいに、真摯に扱いたい。これは誰に何と言われようと勝手にやる。
スイーツに例えるなら、みちみちにつまった固焼きのイタリアンプリンみたいな密度。

正しい表記を使いたい、とか漢字を”ひらく”かどうかの端々にも意図を載せたいってのもある。どっちかっていうと文章の話だし、こっちも勝手にやるんだろうなあ。

今後もそういうスタンスでいるんだろうなあ、というメモ書きのようなものでした。

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