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1.自分で、選んでよい

ポリヴェーガル理論についての本を読んでいる。わりとやさしめだけど専門的な内容。基本的に当事者に向けて書いてあるけれども、支援者向けの内容もある。友だちから借りっぱなしのやつ。ごめん。

ちょうど去年のいまごろくらいにトラウマとかPTSDとかにふれる機会があり、大なり小なりそのようなものをみな抱えて生きているし自分もその例に漏れないんだと知った。

適応することに多大なエネルギーを使っているように見える、と言われたのをたびたび思い出す。

ヘルシーでないいつものパターンがいくつかあり、それらはすでに役目を終えているので本来であれば登場しなくてもいいはずなのに、フルオートで出現してくる。

実家にいるのに、気を遣わなくていいはずなのに、誰にも意地悪されていないのに、疲れていた。地元で東京に出てきてからの友達と会っているときの口数の多さ(と家でのそれの落差)に自分で気づいてドン引きして、消耗している自分にドン引きして、東京に帰ってきてから数日ぐにゃぐにゃしていた。

理解したいしされたいというかなり強めの欲求が満たされないままいたからだろうなと思っていたし、それも大きいだろう。なんだけど、今日芝生で光合成しながらぼんやりしてて浮かんできたのは、本人がいないところで話されること、噂されることがすごく嫌だったなあということ。過去形にしたけどまだザワザワする部分もある。

田舎だから娯楽がないし、と片付けるのは簡単かもしれない。うーん。
その場にいない他者の話をするときに、その人をエンタメとして消費することとがっちり紐づいている気がする。バラエティ番組的なノリというか。

これはあれだな、大事なものやすきなものをないことにしていたところとも繋がるやつだ。消費されたくないからシャットアウトするというパターン。とやかく言われたくない、揚げ足を取られたくない。

そういう関係性とは距離を取っていけばいいのだし、だからこそ今ヘルシーにあれてはいるのだけど、オールクリアというわけでもなく。

自分にとっての大事度が上がれば上がるほど、なかったことにしたくなるのはそういう仕組みなのかもなあ。

なんにせよ、自分がそうしたいと思ったものを選んでいけばよいのだよな。こうあるべき、にとらわれていると気づくたびにどうありたいかを選び直していけたらいいな。

20220212 01:03 at Home

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