On Air from Fukuoka #2
Yushi Mori(60年代研究所)
福岡あるいは九州に在住、または以前住んでいた方や出身とするモッド・レジェンドたちにあれやこれやと突撃インタビューをするコーナー。
紹介させていただきますお二人目は、1960年代のスタイル、カルチャーを愛好する、森 裕史(もり ゆうし)さんです!
******************************
module(以下 m ):本日は宜しくお願いします!
Yushi Mori(以下 Y.M):宜しくお願いします。
m:早速ですが、森さんのはじめてモッズというスタイルやカルチャーを認知したキッカケは何だったのでしょうか?
Y.M:そもそもは、小さい頃、年上の従兄弟にビートルズをキッチリ仕込まれました。
リアルタイムで流行ってたのは”イーグルス”とか”ジャーニー”とか”ボストン”とか”フォリナー”とか。ジャズやフュージョンも盛んでしたね。
思えば僕が中1くらいの頃なんで、解散して7年くらいしか経ってないんですが、流行の音楽に比べ最初はえらく不思議に思えました。
あとで知ったのですが、聴かされていたのはホワイト・アルバム(笑)だいぶんエリート教育ですよね。
その不思議な感じが気になったんでしょう、自発的にビートルズを掘っていくようになったんです。
その頃は、ラジオでもけっこうオンエアされていたので曲も覚えていき、そのうち武道館での来日コンサートがテレビで放映されることになります。
音楽、演奏はもちろん、言動やファッションに関しても決定的に影響されました。
高校ではビートルズ好きでバンドもやってる友だちもできまして、友だちのバンドは『ひとりぼっちのあいつ』のコーラスなんかもしっかりやってましたね。
メンバーのお父さんが音楽好きで個人スタジオを所有されており、たまに練習を覗いては羨ましく思ったり、友だちの兄貴が大量にレコードを持っていて日参して聴かせてもらったりするうち東京を目指すようになりました。
上京の大義名分は「最新のコンピュータ学を修めて一流技士になる!」、その実はレコード屋と神田の楽器店と秋葉原のパーツ屋です。
質問の趣旨からだいぶズレました。
まだ“モッズ”という言葉もスタイルもカルチャーも知りませんでしたが、60年代の感じも含め『ビートルズ的なものが一番好き』というのはハッキリしていたと思います。
m:卒業してすぐに上京...
Y.M:新宿百人町の電子専門学校に入学しました。
授業をサボって紀伊國屋のはす向かいの地下にあったレンタル・レコード屋とか西新宿の貸しビデオ屋とか高円寺やら阿佐ヶ谷あたりをうろつきました。
80年代中期の東京ですもんね、徐々にパンクやニュー・ウェーブにも興味の幅が広がって、そういう友人も増えてゆきツバキハウスの”ロンドンナイト(以下 ロンナイ)”に行き着きました。
僕にとってのクラブというかディスコ初体験は、ちょっとニューウェーヴ寄りの選曲もやってた歌舞伎町の”ニューヨーク・ニューヨーク”です。
ロンナイの存在は知ってましたが、なんだかんだ怖いイメージがあって、、、まあ実際怖いこともありましたが(笑)。
気合いで行ってみた友達に聞くロンナイはDJも客もカッコ良くて「最終的にはロンナイだろ?!」ということで、通い始めたわけです。
m:80年代中頃に上京され東京モッズシーンに足を運ばれる事になったのですが、その時の話について聞かせてください。
Y.M:どういう経緯で行ったのか記憶は曖昧ですが、ツバキハウスのライブ・イベントに出かけたとき ”ブライトン・ブルービーツ”(*1)を観て衝撃を受けてしまって。
自分の中でパンク・ロックと60年代がガッチリ繋がったというか、「カッコイイ!こりゃあ、ザ・フーじゃないか!これがモッズかぁ!」と、溜め込んできた情熱が一気に溢れ出しました。
ブルース・ブラザーズにいうところのJB牧師『キャン・ユー・シー・ザ・ライト』的な、電気ビリビリですね。
そのあたりの界隈に出入りするうち、モッズを嗜好する友だちが増えたんじゃないかと思います。
僕が知り合った東京モッズの人たちは、なんというか、泥臭い感じだったと思います。もちろん自分も含めて、です。
”泥臭い”という表現は決して悪い意味ではなく、言い換えるなら”エモい”ということですかね。
オーダーのスーツ着てキッチリとデコレーションしたベスパやランブレッタなんかをスタイリッシュに乗り回してるんだけど、若さの勢いに任せて言動が非常にエモくて(笑)みんな個性的だったし『俺のモッズ感』全開で、一緒に居て楽しかったですよ。
映画 ”さらば青春の光” を地で行くぜ、的な。多分、僕の勝手な思い込みですね(笑)
ロンナイ通いを卒業して、、、もしかしたらツバキハウス自体が閉店したのかもしれませんが、
その頃になると遊ぶのはモッズ界隈ばかりで、週末の夜にはだいたい新宿二丁目の ”ブギーボーイ” とか行ってました。
当時、シーンのフェイスだった "サトルさん(藤井 悟)(*2)” あたりの人たちは麻布や原宿界隈で遊んでいたみたいですが、我々にはちょっと敷居が高かった、、、ように思います。
※ツバキハウスのマッチ。ロンナイのメンバーズ・カードもあった。
m : そんな中で、ザ・ヘアの "あい さとう" さんのパーティーに足を運ばれてモッズカルチャーの師として東京のシーンに深入りしたという事ですが、さとうさん、ザ・ヘアについて何かあれば!
Y.M:昔のことなので自分の都合の良い方に勘違いしたり、思い込みによる妄想も多々あるかと思いますが、ザ・ヘアの出現を機に ”ザ・ジャム的な” パンク~ニューウェーヴ寄りのビート・サウンドとはちょっと違った、より古典的なR&Bを目指すバンドが増えてきたように思います。
話逸れますが、さとうさんの、あの格好いいギター・プレイ、僕はずっとピート・タウンゼンドやスティーヴ・クロッパーを想起していましたが、あのギターの位置やカッティングって実はウィルコ・ジョンソンの方が近いかも、と思ったりして、自分的には勝手に目から鱗が落ちました。
さとうさんは、新宿二丁目の ”ブギーボーイ” で毎月開催されていた ”ゴーゴーパーティー” というイベントでDJというか選曲をやってましたね。
たぶん、いわゆるDJ機材が置いてなくて、さとうさんはカセットテープに編集してきて店のステレオで流してました。
選曲は60年代全般、日本のグループ・サウンズ(GS)なんかも流れてましたね。
”この面はR&B”、”この面はソウルジャズ”、”この面はGS”とか、テーマごとにカセットを編集してあったような気がします。
テープの片面が終わったら裏返すか交換するわけですが、その切れ目がイイ具合にトイレ休憩だったり(笑)。
ただ、これが、さとうさんのパーティーだったか、これまた記憶は曖昧ですが、、、。
いっつも酒呑んでたので、実は幻かもしれません(笑)。
m : ザ・ヘアは勿論ですが、その他にフェイヴァリットにあげるバンドがいればお応えください。
Y.M:そうですね、なかなか思い出せないけど、、、
アニマルズとかゼムっぽいR&Bサウンドが印象的だった ”マディ・ランプス(ザ・フェイブ・レイブスの前身)”、”バック・ドア・メン” の正ちゃんがやってた ”エース” だったかな?などが好きでした。それと、フォーク・ロックっぽい ”メイベルス” とか。
また話が逸れますが、初めてブライトン・ブルービーツを観てぶっ飛んだ日に出演していたのが、メジャーデビュー直前の ”ザ・ブルーハーツ(以下ブルハ)” でした。
すでにファンもたくさん付いていて、確か『青心会』というジンかチラシを配布してたように思うので、ブルハがメインのイベントだったのかもしれません。
『アイ・キャント・エクスプレイン(ザ・フー)』や『夜をぶっとばせ(ザ・ローリング・ストーンズ)』などのカヴァーとオリジナル曲が半々くらい。
僕は、いわゆる”巻き舌”の歌手が苦手なので、ヒロトのストレートな日本語に痺れましたし、なんかすでに完成形を観た感じでした。
m:モッズから派生し、GSに興味の方が転移していくわけですか~。
その時代には有りそうで無い感じの出来事ですね。
GSにのめり込んでいく経緯を教えてください。
Y.M:マイナーなGSを知ったのは、黒沢 進 (*3)さんの ”熱狂!グループサウンズ図鑑(1986 / 徳間書店)” です。見たことも聴いたこともないGSのレコードが満載で衝撃を受けました。それにGSの定義やカテゴライズ、各レコードの紹介文がめちゃくちゃ面白いんですよ。GS図鑑とレコ屋マップを携えては、GSを売ってそうな中古レコ屋を巡るようになりました。
とはいえ、なんせ金が無かったので、レア盤は店頭で指くわえて見るだけ。現実は、安い中古盤屋とか商店街のリサイクルショップです。近所の粗大ゴミでレコードを拾ったりもしました。タイガースとかスパイダースとかのヒット曲なんかは、けっこう捨ててあったんですよね。
メジャー系のGSにはあんまり興味なかったんですが、ちゃんと聴いてみると意外に良かったりして、スパイダースのファーストを聴いた時は「うわ!キンクスじゃん!66年の日本でこういったサウンドやってたんだ~?!」と感動しました。食わず嫌いはいけませんね(笑)。
※ムッシュかまやつのセンスが光るファースト・アルバム。
これはポリグラムからのリイシュー盤なので写真が粗い。
そんな感じで、貧乏なりの安レコード収集がGS、ひいては和モノ全般への興味に広がります。
高円寺の新星堂の店員さんが詳しくて親切で、早川義夫のジャックスなんかも教えてもらいました。
気が付くと、フリルシャツ着て髪も伸ばし、だいぶその気になってまして、きっと、クールで端正なモッズより醤油テイストのGSが性に合ったんですね(笑)。
レアなGS音源が詰まった黒澤カセットを教科書に、ブルーコメッツの三原綱木が使用していた国産メーカー ”ファーストマン” のリバプールというギターや、やはり国産 ”テスコ” の古いギターアンプとか、ローランド社のファズ・エフェクター ”ビーバー” なんかを手に入れ、下手なうえに中途半端ではありましたが”B級GS(カルトBS)” のカヴァーバンドを組みました。
ファントム・ギフトやヒッピー・ヒッピー・シェイクスなどのネオGSも盛り上がってましたが、よりリアルでディープな孤高を目指し、『ゲルピン・ロック(ムスタング)』、『恋はもうたくさん(ダイナマイツ)』、『ホワイ・ベイビー・ホワイ(ビーバーズ)』、『恋にしびれて(リンド&リンダース)』、『離したくない(リンガーズ)』など、ビートが強くてファズがビービー鳴いてるようなガレージ寄りの曲を選んでカヴァーしました。
和製ガレージの頂点『赤く赤くハートが(レンジャーズ)』まで攻めたかったんですが、メンバーの同意が得られず断念しました、、、。
バンド名は、忘れたことにしときます(笑)。
また余談ですが、東京を引き払う前日に西荻窪でさよならライブをやったあと、件のブギーボーイで打ち上っていたら、キース・ヘリングが来店しまして、友人が酔った勢いで「こいつ有名なギターリストだよ!」と図々しく話しかけて(笑)僕もずいぶん酔っていたのでその気になって適当な英語で挨拶したら、目の前でイラストを描いてくれたんですよ、僕の名前も入れてくれて。ですが、あれから10回以上引っ越しやってるうち、いつの間にか無くてしまうという、、、。
※100組超のGSを独自のカテゴライズで紹介。
巻末の各種コラムがミニコミ的な味わい深さ。
m:東京での沢山の刺激や体験を元にその後、拠点を福岡に移されるわけですが、何年頃に福岡に?
Y.M:仕事辞めて佐賀の実家に戻り半年くらい農業手伝ってましたが、福岡での仕事が決まったので88年に拠点を福岡に移しました。
m:それでは『60年代研究所』の主な活動、イベント 『フリークアウト!』のオーガナイズ、またメンバーとの面白エピソードなどあれば交えてお願いします。
Y.M:所員は天神のファッションビル勤務時代に、お客さんとのネットワークで繋がっていった感じですね。
お客さんには個性派が大勢いらっしゃいましたので、友達ツテなんかで60年代に興味がありそうな人を紹介してもらったり、ですかね。
そんなこんなで5~6人のチームというか愛好会みたいなのができて『60年代研究所』の設立を思いついたんじゃなかったかなぁ。みんなにも訊いてみないと定かではありませんが、、、。
所員はみんな60年代好きという部分では共通してましたが、カルチャー、ファッション、音楽、などそれぞれの得意分野があったような気がします。
私はアパレルで、美容師やデザイナーもいましたので各所員の職業にヒモ付いたところもありますね。それで、まあノリで「あんじょう研究しようやないかい!」的なスタートだったように思います。
僕の住居の入口が商店街に面してたんで人目につくよう『60年代研究所』の表札をこれ見よがしに掲げ、研究所の知名度向上と発展に尽力しました(笑)。
所員は、歴代入所トータルで10名くらいですかね。
あ、なんか思い出しましたよ、、、「研究所に入りたい」と入所希望の人が来て、みんなで「どうする?」みたいな話になって、60年代度を測るためのオーディションみたいなのをやりましょう!てことで面接みたいなのやったんでしょうね。「60年代度を測る」って、意味分かりませんね(笑)きっとしょうもない面接だったんですよ。挙げ句「キミはまだまだ予備軍クラスだね」とか(笑)。
『フリークアウト!』というイベントですが、DJやバンドが出るオールナイトのイベントで、規模、開催場所、内容に関してはその都度違っていたと思います。でも、なぜか詳しいこと思い出せないんですよね。全部の記憶がごっちゃになってしまって。
会場は、西新ビーベン、中洲アンドロイド、赤坂オピウム、とか、、、親不孝通りのクラブでも開催したかもしれません。
ゲストは、ザ・ヘアとか東京パノラマ・マンボ・ボーイズとか、、、だったような。
覚えているのは、西新ビーベンでのライブ・イベントで60年代アメリカのテレビ・ショウ『シンディグ』を再現したくて、舞台上にイントレでお立ち台組んでお揃いの衣装を着た5,6名のゴーゴーガールに登場してもらったり、友達に『スマザーズ・ブラザーズ・コメディアワー』の司会者役をお願いしてザ・フーの出演回みたいにアコギ壊してもらったり。
舞台演劇やってる友達にお立ち台の部材手配と施工をやってもらいましたし、美容師の所員にゴーゴーガールをスカウトしてもらったり、なんか色々協力してもらいました。
ま、ゴーゴーガールのスカウトは役得ですなぁ~とか思ってましたけど(笑)。
ファンジンも配布してました。まだPCが出回ってない頃なので、原稿はワープロか手書き、表紙はインレタとかスクリーントーン貼り付けが普通でした。これまた所員の一人がデザイン事務所に勤務していたので休日にオフィスを使わせてもらいましたね。
僕の記事はレコード・ハント日記で、知ってる人が読めばバレバレですけど元ネタは戸川昌士の『猟盤日記』です(笑)。
どうしても、こっち方面に引きずられてしまうんですね。
でも今にして思えば、高みを目指すばかりにあれこれ暴走していたと思いますし、周りにもずいぶん迷惑を掛けていたはずなので、単純に楽しかったと思い出話にはできませんが、、、。
この記事を借りて、当時ご迷惑をおかけした皆さまにお詫び申し上げたいです。
m:80年代クラブシーンの誕生と、それまでのライブシーンが混在する狭間を体験されてきたと思いますが、当時の福岡のお話聞かせてください。
Y.M:まず、まったく個人的な考えなので気を悪くする人がいたらすんません。
実はライブハウスをちょっと苦手に感じていて、何度か出たことはあるんですが「ちょっと今日の対バン、キツいな」とか「ノルマ払うくらいなら自分らでそれっぽい会場見つけてレンタルした方がいいんじゃないか?」とか思ってました。
今では、ライブハウス経営の大変さも理解出来る大人になりましたが、なんせ当時は血気逸っていたので(笑)。それと、ライブハウスに出入りする人たちはDJとか見下してるんだろうな~とか。まあ卑屈ですよね(笑)
で、クラブをレンタルしてバンド機材持ち込んだり、知り合いツテで休日の飲食店を借りてみたり、ライブやDJとか手作りイベントをやってました。フライヤーやチケットをデザインするのも楽しいですからね。
それと僕は機材が好きなのでセッティングなんかも苦ではありませんでした。
始めた頃は60年代に限定した選曲だったように思いますが、徐々に広がっていきました。
DJイベントやクラブが少なかったこともあるんですかね、みんな音楽のジャンルに関係なく遊んでいたように思います。いろんなDJと知り合いました。
レゲエ、ヒップホップ、テクノ、ハウス、レアグルーヴやジャズなど、知らない分野のDJとの情報交換は楽しかったですし、自分の引き出しも増えていき、例えばサンプリング・ネタからシックスティーズ探求の死角に気づくことも多々ありました。
ちょっと照れ臭い表現ですが、それぞれの趣味趣向を持った人々が集まっての『お洒落・音楽・遊び』という意味ではロンナイのイメージにちょっと近かった、というか。僕の好奇心が、そういう場を求めていたのかもしれません。
自分もバンドやってたので、自然とバンドとDJでイベントを組むようになったんだと思います。
ファッションビルで働いてる時、バンドやってるお客さんもけっこう多くて、凄く記憶に残っているバンドが当時ふたつありまして、ひとつは60年代のサイケ・バンド ”ザ・シーズ” のカヴァーなんかも演る、ちょっとドアーズみたいなダークなバンドで、ボーカル君は色気が凄くてギタリストは曲やギターのセンスが抜群、桁違いにカッコよくて。そのバンドに自分のショップのパーティに出演して貰ったんですが、多分バンドとDJをミックスした自己初のイベントだったと思います。ただ、その時はDJ機材を持ってなく、店にもなく、機材のレンタルもなかったはずなので、さとうさんに倣ってカセットテープDJでこなした、ような気がします。
もうひとつはボーカルが白塗りのパンク~ミクスチャー的なバンドで、演奏が上手いだけでなくパフォーマンスがたまらなくエモくて個性的で、なんでか某女子短大の文化祭に出ると聞いて「こりゃ大変だ!」と大いに期待してライブを観に行きましたが、やはり最高でした。魅力を存分に出し切って、以後その学校は出禁になったと聞きました(笑)。
そのバンドのベーシストが色々と詳しくて、ちょうど『母乳』がリリースされた頃ですね、”レッド・ホット・チリ・ペッパーズ” や ”ニューキー・パイクス” などを教えて貰いましたが、カッコイイと思いました。やっぱり、あの、振り切っているのがいいんですよね。
福岡で最初に組んだバンドは、『ミルク・カウ・ブルース(ザ・キンクス)』や『ダディ・ローリング・ストーン(ザ・フー)』といった、ブリティッシュ・ビート経由の黒人音楽のカヴァーをメインに演ってましたね。あとは、なんだろう、、、プリティ・シングスとか。ボ・ディドリーとかスリム・ハーポなどの直球曲もカヴァーしましたかねぇ。その時の担当はギターで、チェリーレッドのエピフォン・リビエラの現行モデルを教科書通りに白のカールコード経由でアンプ直インです。
その次が、いわゆる『スモール・フェイセス』パターン、ギターボーカル、ベース、ドラム、鍵盤ですね。僕はベースに転向して、格安で入手した67年のフェンダー・プレシジョン・ベースでした。
こっちのバンドも最初はカヴァーのみ、『アイム・ア・マン(ザ・スペンサー・デイヴィス・グループ)』や『ダンス出来ない(スモール・フェイセス)』など鍵盤ありきの曲とか『ティック・タック・トゥ(ブッカーティーとMGズ』や『ショット・ガン(ジュニア・ウォーカーとオールスターズ)』なんかのR&Bっぽいやつとか、あるときは女性三人のコーラス隊を入れて『ユア・ノー・グッド(ベティ・エベレット)』や『ウォーク・オン・バイ(ディオンヌ・ワーウィック)』、『アイム・ブルー(アイケッツ)』などにも挑戦しました。コーラス隊は、007のボンド・ガールズの向こうを張って ”シンナー・ガールズ” と呼んでいたかな(笑)。
ほかにも、ヤング・ラスカルズとかバッファロー・スプリングフィールド、ジャズ・ロックの ”コロシアム” とか、、、なんか手当たり次第ですね(笑)。
正直、ベースを弾きこなすのは苦労しました。メトロノームの前で『タイトゥン・アップ』を7~8時間引き倒したりして、それなりに努力したつもりなんですが、才能がなかったんですね。スティーヴィー・ワンダー『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』のジェイムス・ジェマーソンをコピー出来ず、限界を知りました。
それと、イベントをオーガナイズする方に目が行ってしまって稽古も疎かになり、バンドを脱退することになりました。その後、バンドは新しいメンバーを入れて音楽性も移行していってオリジナル曲なんかも演るようになりましたね。あ、僕が居た最後の方も、『はいからはくち(はっぴいえんど)』のカヴァーなんか演ってたんでした。
m:最後にお決まりな締めくくりですが、あなたにとってモッズとは?
Y.M:自分自身は、おこがましくてモッズを自称するなんてできなかったんですが、あらためて思うに、僕にとってのモッズとは ”美の基準” ですね。そして、ずっと憧れております。
m : ここ福岡で伝統芸能みたいにモッズカルチャーが息が途切れる事なく続いたわけではありませんが、結果、間口を広げた幅広い独自の福岡モッズの考え方(精神)は今でも残っていると思います。本日はありがとうございました!
[脚注]
(*1)ブライトン・ブルービーツ
"あいさとう" 氏が率いる83年頃に結成されたハードコアなR&Bバンド。シーンの顔役ともなる "ザ・ヘア" の前身バンドともいえる。
(*2)藤井悟
このコラムの#1にも登場してきた、東京のシーンの中でも全てにおいて先を進んでいたトップクラスのモッズ(フェイス)。
(*3)黒沢 進(くろさわ すすむ)1954年9月5日 - 2007年4月19日)
日本の音楽評論家。「GS研究家」の肩書きを掲げ、グループ・サウンズ研究及び評論の草分けとして常に第一線で活躍。B級GS(カルトGS)を中心とした和製ポップスの埋もれていた音源の発掘、及びGSの元メンバーの証言の採集にも尽力した。
◆プロフィール
森裕史(もりゆうし)
1964年生まれ。
佐賀県小城市出身。
1983年~1988年東京在住。
新宿ツバキハウス『LONDON NITE(ロンドンナイト)』通いを経て東京モッズ界隈の知己を得る。
福岡に移り住み、同好の士と『60年代研究所』を立ち上げ、イベント『FREAK OUT !(フリークアウト)』の開催やファンジンの発行に携わりつつ、60年代音楽の再現を目指すバンド『THE LUBLITES(ラブライツ)』を結成(担当楽器はベース)。
心技に難有りほどなく離脱。
在京時代より、心の師は『ザ・ヘア』のあいさとうさん。
■インタビュアー:fame the mod(コウジ)/module