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第9回両国アートフェスティバル2024『二次創作』 芸術監督:山根明季子 【Program 1】【Program 2】

9回目を迎えるフェスティバル。今回をもって一区切りとのことである。会場で鑑賞することができた【Program 1】【Program 2】についての所感を記します。

映像配信:庄子渉
映像配信アシスタント:石井孟宏
協力:株式会社山石屋洋琴工房、モモ·カンパニー、ナヤ·コレクティブ
主催:一般社団法人もんてん
助成:
公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成]
芸術文化振興基金助成事業

【Program 1】

ピアノ、エレクトロニクス:林賢黙(イム・ヒョンムック)

曲目:
ピエール・シェフェール:ビリュード(1979)
梅本佑利:世界で最も有名なネズミ、ついにその檻から逃げ出す!(2024)
マーカス・フィエルストレム:ピアノ教本 #1 (2014)
ベン・ノブト:もう一度言って(2022)
中島夏樹:アルファ/ビート(2016/2024編曲版委嘱初演)
ニコル・リゼー:めまいの海辺(2007)ピアノソロ

テーマに掲げられた「二次創作」の規定が漠然とし過ぎていると感じた。本来は、ある作品本編のキャラクターを属性ごと借用し、新たな創作を行なうことをいうのだと思われる。

今回取り上げられたのは、元ネタのあるものに関してはアプロプリエーション、特定のジャンルの作品を彷彿とさせる素材を用いたものは様式作曲のような営為によるものだろう。山根氏としては、オリジナリティということそのものを問題にしたかったようである。ならば尚更テーマの用語には慎重になるべきだったろう。

シェフェール作品…バッハのプレリュードを素材に、事前に作成された電子音とピアノの生演奏とが入り乱れる。古典的に感じるけれど、一番おもしろかった。

梅本作品…2024年で、オリジナル版のミッキーマウスとミニーマウスの著作権保護が終了し、ミッキーマウスのデビュー作とされる"Steamboat Wille"がパブリックドメインに入る。ただし、オリジナル版以降に創作された新しいバージョンは依然として保護の下にある。本作で演奏と同時に流される"Steamboat Wille"のループ画像が速度を増していくのは、ハツカネズミの檻の中に置かれた回転遊具を想起させる。ただ、開始部では、7倍速での聴こえをなるべく正確に書き取ろうとしているのだと思われるのだけれど、そこでの正確さにはどのような意図があるのだろう。質されるべき問題は、ミッキーが頬を膨らませながら吹き鳴らす口笛の音色よりも、映像作品の外側にあるのではないか。

フィエルストレム作品…スクリーンには悪夢のようでもおとぎ話のようでもある、不思議なストーリーとともに楽譜が表示され、奏者は動画に合わせて演奏していく。愛らしくもどこか毒を含んだ響きが印象的。

ベン・ノブト作品…さまざまなユーチューバーやメディテーターらのことばを繋ぎ合わせていく。シークエンスはごく短く断ち切られ、まるでネットサーフィンをしているかのようである。ときおり、波打ち際を映す環境ビデオ的な動画と瞑想的な音楽があらわれるが、音量が徐々に大きくなり、視聴者を圧倒していく。結局のところ、コンテンツに関係なく、現在のネットの世界では安らぎは得られない、ということか。身につまされるけれど、では、どう向き合うべきなのかという方向性は特に示されない。

中島作品…おもしろく聴けた。音数は非常に多く、演奏至難と思われる。クラブミュージックへのトリビュートということか、クラブミュージック風の素材を駆使しつつ、全編5拍子で貫かれ、「踊れないダンスミュージック」(プログラム・ノート)となっている。クラブミュージックの実用的な部分をそぎ落としてしまい、純粋に音楽として提示してみた、と感じられる。クラブというコミュニティの空気感を取り出すところに趣旨の一つがあるのだと想像した。

リゼー作品…最初に示される素材が姿を変えつつ何度もあらわれる。途中から「不屈の民」変奏曲を聴いているような感覚になってくる。他方で、後半はグラハム・フィトキンの作品に通ずる響きのようにも聴こえる。音数が非常に多く、難度の高い作品と思われるけれども、志向するものが今ひとつよくわからない。

ベン・ノブト作品"Emily Likes the TV"(アンコール)…テクストは、フィリップ・グラス「浜辺のアインシュタイン」でも詩が用いられている、クリストファー・ノウルズによる。"Emily likes the TV, because she watches the TV, because she likes it"という文を繰り返したり、変形させつつノウルズ氏自身が朗読する。その声に和声を加えていく。おもしろく聴けるのだけれど、このプロセスで加えられる単音や和声については、その必然性などが問われるのではないか。なぜ、その音を、その和音を重ねなければならないのか。作曲者の解釈によるというほかないのだと思われるが、それならば、すぐさま翻訳と同じ問題が発生する。音の印象により、テクストの解釈可能性が限定される。そのとき、原テクストが持っているはずのニュアンスの広がりは、確実には保全されないのではないか。そう考えると、古典的な歌曲と作りがほぼ同じということになる。

全体を通じて、山根氏の狙った「オリジナリティ」とは何かという問いに対してあまり明確な方向性を与えてくれるプログラムではなかった。今回取り上げられたのは、それぞれ根底に確固たる問題意識を持つ作品である。しかしながら、オリジナリティそのもののあり方や、アプロプリエーションなどの手法そのものを問い直すものではなく、当初の問いが不明確になった感がある。

林氏は繊細かつ想いのこもった演奏を展開して、力演だった。(2024年8月3日 両国門天ホール)

【Program 2】

ピアノ:川崎槙耶、佐竹裕介

曲目
塩見允枝子:遮られた音楽 演奏:川崎槙耶(使用楽曲 ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調より第1楽章)

ラ·モンテ·ヤング:コンポジション1960 #13
(1960) 演奏:佐竹裕介(使用楽曲 モーリス・ラヴェル:シャブリエ風に)

山根明季子:状態 No.3 演奏:川崎槙耶(使用楽曲 ルチアーノ・ベリオ:6つのアンコールより 大気のピアノ)、佐竹裕介(使用楽曲 ムツィオ・クレメンティ:そなちねOp.36第1番ハ長調)

フィリップ·グラス:5度の音楽 演奏:佐竹裕介

トム·ジョンソン:コードカタログより「ーオクターブで可能な286の3音コード」 演奏:川崎槙耶

山根明季子:イルミネイテッドベイビー 演奏:佐竹裕介

ラ·モンテ·ヤング:コンポジション1960#13
(1960) 演奏:川崎槙耶
(使用楽曲 ジョン・ケージ:夢)

ヨハネス·クライドラー:異質(2010/13) 演奏:佐竹裕介

山根明季子:ビートの網目(2024 委嘱初演) 演奏:川崎槙耶

塩見允枝子:グランドピアノの為のフォーリング·イヴェント 演奏:川崎槙耶、佐竹裕介

展示作品
塩見允枝子:究極の音楽 No.1~No.6(2003)
No.1 凝縮された交響曲第九番 最終楽章(合唱付き)
No.2 大荒れのジムノペディ
No.3 視覚化された4'33"
No.4 ヘイ、プレリュード、いつまでやっているんだ!
No.5 ラールゴ-無限のアリア
No.6 トロイ-遮断された-メライ
協力:ときの忘れもの

音楽、殊にクラシック音楽においては作曲者・作品(楽譜)・演奏者・聴衆という四つの要素が揃うことがデフォールトとされる。しかも、作品には作曲者とタイトルがクレジットされるのが通例である。それゆえ聴衆は、ラ・モンテ・ヤング作品(本プログラムの演目である「コンポジション1960 #13 」は「演奏者は任意の作品を準備したのち、それをできるだけ上手く演奏すること」という指示によるテクスト・ベースの作品)を"アプロプリエーションである"と宣言された上で聴くこととなる。今回のラヴェル作品やケージ作品の繊細で優美な演奏をわたくしたちはどう聴けばいいのか。演奏の間中、聴衆の頭の中は自問に溢れることとなる。それこそが、この作品のめざすところである。

加えて、テクスト・ベースで、かつ、今回のラ・モンテ・ヤングのようなコンセプチュアルな作品では、奏者によるリアライゼーションの差異は作品の本質を左右しない。ここで必要とされているのはインストラクションの通りにリアライズするという機能のみを担う存在であろう。となると、リアルな演奏者は本当に必須なのかという問いに繋がる。

ラ・モンテ・ヤング作品は、打ち込みで演奏する、さらには音源を放送することによっても成立しうるのではないかと思えてしまう。

実際、会場は照明が暗く落とされ、2人の奏者が交互にあらわれては演奏する。演奏の前と後にはお辞儀をするのだけれど、照明が奏者の背後から当てられていて、顔がよく見えない。

こうしてプログラム2の趣旨は、結果的に作品のオリジナリティというよりも、従来の音楽聴取の形態全体に対する問題提起へと変容しているのではないかと思われた。

コンロン・ナンカロウは、構想した作品があまりにも複雑なリズム構造を持つがために、人間による演奏を放棄し、プレイヤー・ピアノのために書くことにしてしまった。

少し前からナンカロウ作品が器楽アンサンブルに編曲して演奏されるようになってきた。人の手に「取り返す」方向性というべきか。複数人のアンサンブルで演奏するバージョンもきわめて難度が高い模様で、必死で演奏する奏者たちの姿を見るのも、それはそれで興味深い。

他方で、自動ピアノの奏するナンカロウ作品はそれ自体が不思議な魅力に溢れている。古いジャズ風の素材と、ちょっと調律のはずれたような自動ピアノの音色が絶妙に釣り合っていておもしろい。アンサンブル版の魅力の一つの源泉もそこにあるのだろう。

では、コンセプチュアルな作品とナンカロウ作品は同じなのかと考えると、少し違うように思われる。ナンカロウは自らのアイディアを音にしてみたいという餓えるような欲求があったのだと推察する。

これに対して、コンセプチュアルな作品は、演奏されること自体が必ずしも必須とされていないふしがある。

今回会場では、塩見氏による、既存作品の楽譜を用いた平面作品が数点展示されていた。これらは演奏を目的としていないと思しいけれど、演奏された塩見氏の2作品も同じ系譜に属しており、既存作品を利用したアート作品と言える(山根氏自身も「レディメイド」ということばで紹介していた)。

一方、山根作品(新作、「イルミネイテッドベイビー」)も、グラス作品(当初予定されていたパオロ・カストルディ「スケール」(1970)から差し替えられた)も、演奏者によってステージで演奏されることを前提としている作品である。また、山根作品「状態No.3」も、既成の作品を用いる、テクストベースの作だが(今回はクレメンティ作品とベリオ作品)、生演奏を必要とするものだと強く感じた。

ジョンソン作品とクライドラー作品は、どちらも1オククターヴ内に存在する3音のコードを網羅するものだという。最高音や最低音のつながりに注意を寄せたりすると、和音ではなく、旋律線のようなものが聴き出されたりする。作品の聴こえかたは演奏の様態によっても異なってくるはずである。したがって、いずれも実演があってこその作と言える。聴取が問題となりうる点でグラス作品とも親和性がある。この3作品の間には有機的な繋がりがみえる。

しかしながら、プログラム全体を通じて、塩見作品、ラ・モンテ・ヤング作品と、それ以外とではコンセプト的にかなりの隔たりがあるように感じる。その隔たりを作り出していたのが、先述の通り演奏者の存在という問題であった。プログラム1同様、「二次創作」「オリジナリティ」といったキーワードは、残念ながらここでもあまり有機的に機能していないように感じられた。

川崎氏、佐竹氏はクールで、かつ、各作品への深い理解に基づく演奏を展開していた。(2024年8月7日 両国門天ホール)

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