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東京都交響楽団第992回定期演奏会Bシリーズ

ジョン・アダムズ:アイ・スティル・ダンス(2019)[日本初演]
ジョン・アダムズ:アブソリュート・ジェスト(2011)*
ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ(1984-85)

指揮/ジョン・アダムズ
弦楽四重奏/エスメ弦楽四重奏団*

作曲者自身の指揮による作品集ということで、都響定期へ。

「アイ・スティル・ダンス」…弦楽器群と管楽器群で微妙にスピード感に差がある。拍そのものは合っているのだけれども、呼吸が違うといった印象を受けた。律儀に譜面を追いつつ弾いているのがわかり、疾走感が失われていたのが残念。短い作品なのに、いささか長く感じられてしまった。

「アブソリュート・ジェスト」…ベートーヴェンからの引用が多数散りばめられていて、音そのものはおもしろく聴ける。エスメ弦楽四重奏団も好演だった。しかしながら、本作では、引かれているそれぞれの素材や元の作品を批判的に検証する意図が感じられない。それゆえアプロプリエーションの目的が皆目わからないまま終わる。

「ハーモニーレーレ」…代表作とされるだけあり、今夜の3作品の中では、最もまとまりが良い。演奏も引き締まっていて聴きごたえがあった。

作曲者自身のプログラム・ノートによると、「ミニマリズムの展開手法と、世紀末の後期ロマン派の和声的で表情豊かな世界とを組み合わせた」とのことである。たしかに、ミニマル作品でよく見られるリズムやパルスの反復の中で、どこかで耳にしたように思われる和声が次々に入れ替わっていく。けれど、それで何を成し遂げたことになるのだろうという疑問が湧く。一所懸命耳を傾けていてもよくわからないのだ。

端的な例が第2楽章のクライマックスである。ここではマーラーの交響曲第10番第1楽章の一節が引用される。ところが、原曲の強烈な不協和音が、いたって見通しの良い和声に薄められている。結局のところマーラーは調性の軛から逃れることができなかった、といった主張なのだろうか。

それは当たらないだろう。原曲において、作曲家はとめどない思索と逡巡との挙句、分厚い不協和音程を記さざるを得なかったーそこまで追い込まれたーのだと想像する。その凄みにシェーンベルクは少なからず触発されたのではなかったか。そのシェーンベルクが1911年に本作と同題の書物を出版したのも、従来の和声を、伝統的な音楽の構造を解体するためだったはずだ。それ以前に、そもそも後期ロマン派の作家たちが綴った音はそれ自体が調性や和声から脱却するベクトルを帯びていた。

しかるに、本作のようにどこまでも後期ロマン派風の響きを書き連ねることは、こういった音楽自体の内発的な変遷を無視することにほかならない。いわば、外部に繋がらない溜池の中をぐるぐると巡るのみであろう。(サントリーホール・大ホール)

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