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〈解〉の庭園 Garden of “Unraveling“ 山本和智+柿崎麻莉子

ダンス:柿崎麻莉子・蛸島由芽
打楽器:篠田浩美・彌永和沙

会場:都立長沼公園内

トーク「人と芸術と自然の境界で」山本和智×落合俊也

会場:鎌田鳥山・峠の美術館

主催:パレイドリアン、緑の森のアート 峠の美術館春祭り
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京[地域芸術文化活動応援助成]
協力:公益財団法人東京都公園協会、株式会社しろばら百藝社
プロデューサー:佐藤康子(緑の森のアート 峠の美術館春祭り)
制作:鐘ケ江織代(パレイドリアン/株式会社しろばら百藝社)
宣伝美術:すわあおの

会場の長沼公園は、「公園」といってもほぼこんもりとした雑木林である。緩やかな上りの道をしばらく進み、少しひらけた草地に出たところが舞台となった。

ダンサーの柿崎氏の指示で、参加者が落ちている枝を拾い、草地の一角を丸く囲んでステージを作った。少しすると、作品が静かに始まる。

開始部では、2人の打楽器奏者は落ちていた石を2つずつ拾ってきたものを打ち付けて演奏する。苔のついた石を擦り合わせる音は、少し湿り気があって愛おしいような響きがする。後半からはそれぞれ手元に置いてあった大枝を振り回したり、声を上げながら下草を擦ったりする。この辺りは、大枠のみ決め、実際の動きは奏者に委ねたとのことである。ホールとは異なり、反響はないのだけれど、生じる音を地面や下草が柔らかく吸収し、音がどこも尖らない。

2人のダンサーの、華奢なようで実は強靭な身体が美しい。比較的ゆっくりした動きで、相互に細かく反応し合う。終演後のトークで柿崎氏は、ダンサーの動きも大枠を決めたのみで、細部はその場で作っていったと話していた。

奏者もダンサーも、森の環境に対して実に細やかに感覚を働かせつつ繊細なパフォーマンスを披露していた。4人とも、地面や草や木々、その中に潜む生き物の気配や活力といったものを身体の中に取り入れつつ動いていたのではないか。

トークでの柿崎氏と蛸島氏の語ったエピソードが印象的だった。ウォームアップのために森の中で身体を動かしてみた際、どうしても速く動くことができなかったという。一歩足を踏み出そうとすると、草や落ち葉、枯れ枝を踏んで音が生じる。それ以外にも森の中はさまざまな音に満たされている。そうした音を聴いてしまうし、その中で音を立ててもいいのかという躊躇もあったという。音をはじめとする環境に身体を馴染ませるためにはテンポを緩めざるを得ないということではないか。身体を動かす際に、まず聴くところから始まるというのがおもしろい。

作品を観ながら自分は久しく森から遠ざかっていたと感じた。森の中にいると、木々や草の香り、鳥の声、草の上を歩く時の感触など、町の中とは全く異なる環境に包まれる。パフォーマーほどの繊細さではないけれど、自分も身体や気持ちのテンポが緩やかになっているのを自覚した。

今回の作品は、森といわば交感するための大枠を用意してくれたのではないかと感じた。自然界にはすでに極めて複雑な「音楽」が存在している、それゆえ、自然の中に置かれた作曲家はもはや音を書けない、山本氏はそう語る。極端なことを言えば、観客無しで(自身も音を書かないで)上演したかったとさえ言う。今回は、できるだけ自然環境に手を加えない範囲で、作曲家として書ける音を追求したと語る。

無観客でのパフォーマンスをおこなうならば、ほぼ純粋にパフォーマーのための作品となる。

以前名古屋で聴いたライヒ作品のコンサートのプログラム・ノートに「ピアノ•フェイズ」の作曲者自身による解説文があり、自身がピアノを弾いたテープ•ループに合わせて試奏した際の経験が記されていた。曰く「楽譜を読む必要もなく、ひたすら聴くことに没頭しながら演奏するという、新しく、非常に満足のいく体験(だった)」。彼の代表作は聴くことへの没頭から始まっていたのである。ミニマル音楽とされるものは、この姿勢が基盤にあると思う。ここで作品は基本的にパフォーマーのためのもので、たまたま居合わせた聴衆がそれを垣間見ることとなる(こうした「深い聴取」を純粋な形で追求した音楽家として、オリヴェロスなどがいる)。

本作は、深い聴取とも密接に関わる体験だったように思う。山本氏は、作曲家である以上音を書くべきというスタンスと見受けられた。当然だと思う。音を書く行為と、深く聴く行為とは共存しうるはずである。仮に、氏が聴くことにさらに重心を置いてみたらどうなるのだろうなどと夢想した。(2024年4月27日 ※見出し画像は公演の行われた都立長沼公園内の草地)

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