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サントリーホール サマーフェスティバル 2023ザ・プロデューサー・シリーズ 三輪眞弘がひらく ありえるかもしれない、ガムラン Music in the Universe

プログラム

・藤枝 守(1955~ ):
『ピアノとガムランのためのコンチェルトno.2』(2023)世界初演
ガムラン:マルガサリ ミニピアノ:砂原 悟

・宮内康乃(1980~ ):
『SinRa』(2023)世界初演
ガムラン:マルガサリ 声:つむぎね ルバブ:ほんまなほ

・ホセ・マセダ(1917~2004):
『ゴングと竹のための音楽』
ガムランと龍笛(ピッコロ)、コントラファゴット、打楽器、合唱団のための(1997)
指揮:野村 誠 ガムラン:マルガサリ 龍笛:伊崎善之 コントラファゴット:中川日出鷹 打楽器:中谷満と「相愛大学音楽学部打楽器合奏団」(小野竜聖/川久珠寿/鈴木彩葵/高 眞炫/中谷 満/花田 零/星山理奈) 合唱団:東京少年少女合唱隊

・小出稚子(1982~ ):
『Legit Memories』(2023)世界初演
ガムラン:マルガサリ 歌:さとうじゅんこ サクソフォーン:植川 縁

・野村 誠(1968~ ):
『タリック・タンバン』(2023)世界初演
ガムラン:マルガサリ+野村 誠 ほか
角瓶/綱引き/相撲etc.:だじゃれ音楽研究会 ほか

後援:インドネシア共和国大使館
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【芸術文化魅力創出助成】

はじめに

小ホールブルーローズで開催されていたプロジェクト型コンサート En-gawa が終わり、「ありえるかもしれない、ガムラン」の大トリとして組まれた、大ホール公演 Music in  the Universe へ。ホセ・マセダの残した奇作を挟んで、4人の現代日本の作家たちによる新作が並ぶプログラムである。開演前、小ホールから大ホールの広いステージに運び込まれたガムラン・セットを眺めていると、En-gawaの世界が小さなホールから溢れ出て、大きなホールへと流れ込むさまが思い浮かんだ。

藤枝作品

ミニ・ピアノとガムランという組み合わせによる作品の2作目とのことである。コンチェルトとあるが、独奏が virtuosity を披露する作品ではなく、文字通り「協奏」しあう。ミニ・ピアノにはそれ自体が小さなガムランという性格づけが与えられる。したがって全体としては二重のガムランという構造をなすという。

ピアノと同じ機構を持つミニ・ピアノの音色は、ちょっと古めかしく、どこか懐かしいと同時にとても典雅に響く。ミニ・ピアノはペロッグの調律の鍵盤のみを使うので、ガムランの楽器群との間ではうなりを生じない。しかし、その音の響きは終始不思議な違和感を喚起する。わたくしたちの耳には、ピアノの音色に対して通常の調律が強烈に焼き付けられているということだと思う。わたくしたちがガムランを聴くとき、一種のエキゾティックな味わいを、そういうものだとしてそのまま受容する。だけれど、このようにミニ・ピアノによって音律の差異が明確になると、実は高度に西洋化されてしまっているわたくしたちからガムラン音楽までは、大きな隔たりが存することが顕わになる。

ミニ・ピアノがガムランの調律を取り入れた一方、ガムランの側も、ミニ・ピアノという「異物」が加わることによって、いつもの優しげな調べにとどまらず、より繊細で抽象的な響きが引き出されていた。ここから、ガムランの新しい可能性がさらに拓けていく気がする。

宮内作品

聴衆もうっすらと相互に聴き合いながら音を立てるよう促された。朝の森で耳にする音のイメージとのこと。「ルールベース」で作られた作品とのことで、奏者間の相互作用によって進行していく。それが顕著だったのが女声グループ「ことのね」の演奏で、胡弓やピアニカも用いつつ、各箇所におけるリーダーの模倣から音楽を展開していった。「森羅」ということであれば、むしろ出来事の始まり・終わりを曖昧にするなど、時間的展開を背景化したほうが良かったか。

マセダ作品

政治思想を非常に濃厚に帯びた作品だと感じた。当初作曲を委嘱した際は「ガムランのための音楽を」ということだったにもかかわらず、「クンダン、ルバブ、ボナンといった花形楽器は消えている」(中川真氏によるプログラム・ノート)という。しかも、本来のガムランでは置かれない指揮者が登場する。

(2023年8月30日追記 プログラム・ノートでも、演奏会前日のトークでも語られていたが、当初マセダ氏は「ガムランは王宮の、つまり権力者の音楽であり、それに携わることはできない」として作曲の依頼を拒否したという。その後「ガムランを解体すること」をテーマとするなら、ということで依頼を受け入れたが、青銅製のガムラン楽器に加え、民衆の楽器である竹製打楽器を組み込んでいる。民衆に寄り添う作家の姿勢が明確である)

合唱は、日本の古典的な俳句作品をテクストとするが、音節が徐々に切れ切れになり、ことばを辿ることが困難になっていく。俳句は歴史は浅いものの、大衆に深く根ざした文芸である。本作において、作曲家は宮廷音楽であったガムランを「解体」し、返す刀で日本の現状をも一刀両断しているように見える。合唱とは対照的に、涼しい顔でふしを奏で続ける龍笛は雅楽、すなわち、日本の宮廷音楽である。穿った見方をすると、戦後、アメリカは日本の天皇制を温存することによって抵抗勢力を骨抜きにし、他方、市民レベルでアメリカ化を促すことで見事に敗戦国日本の馴化に成功したのだ……というような見解が読み取れるのかもしれない。

他方、龍笛の、西洋音楽におけるカウンターパートとしてコントラファゴットが採用されている。が、オーケストラの中でも最低音域を担当する、ごく周辺的な楽器であることも痛烈な皮肉であるようにみえる。こちらも、自国フィリピン同様、場合によるとそれ以上にアメリカという大国に隷属させられている日本に対する思いではないか。

前日夜のトークで、指揮者を務めた野村氏が、準備段階での逸話を披露していた。曰く、オリジナルの譜面を確認したところ、その楽器には出せない音が記譜されているなど問題が多く、演奏用楽譜を新たに起こすこととなったという。この、親切ではない作家の態度も、作品に込めたものを裏書きしているのではないか。

なお、本作では上述の通りガムランが切り刻まれるのだけれど、このガムランの扱い方は、インドネシアもまたオランダの植民地であったという歴史を重ね合わせたものでもあるのではないか。こういった見立てが成立するのだとすると、今回プロデューサーの三輪氏がテーマとして掲げた「ありえるかもしれない、ガムラン」に、本作が本当に合致するのか、今一度考える必要があるだろう。

小出作品

5曲からなる組曲で、1・3・5曲目は歌の入る「歌謡曲」、間の2曲は「間奏曲」とされる。前者では、ガムランのうごきはごく一般的なものと思われる。他方、後者ではより新しい使い方と響きが追求されている。両者の対比がおもしろい。新作4作品の中では、ガムランの基本的な用い方に最も忠実だったと思われる。

野村作品

さまざまの要素を詰め込んでおり、この音楽祭で披露されるものとしては珍しく柔らかめのコンテンツとなった。ただ、笑いの要素も含むのだけれど、素直に笑うことができなかった。

野村氏は本作について詳細なノート(2023年8月30日閲覧)を公開している。それによると、ガムランの本質は「互いにケアしあうこと」であるという。特定の楽器奏者や指揮者の指示に従うのではなく、「全員が当事者」であることがポイントだと述べる。しかし、今回の舞台ではかなりの頻度で野村氏自身が舞台中央で仕切り役を担っていた。そのため、互いに音を聴き合ってアンサンブルを形成するという方法とはいささか趣を異にしていた。

野村氏のノートによれば、途中に登場する相撲、ゴルフ、ウイスキー、綱引きといった要素は、だじゃれ的発想によって結び合わされたものとのことである。だじゃれ音楽は東日本大震災の発生した2011年に始まったという。「繋がらない世界を繋ぐ橋は、どうやって作ればいいのか?」という問いのもと、本来無関係なもの同士を結びつけるだじゃれに注目したとのことである。

だが、だじゃれは、和歌の掛詞が縁語と深く関連しているように、もう一つの解釈が別の世界を開くくらいでないと、寒いだけで不発に終わることが多い。

極めて卑近な例だけれど、秋田民謡の「ドンパン節」は種々の替え歌がある。石川さゆり歌唱のものに次の歌詞がある。

うちの親父ははげ頭 隣の親父もはげ頭
はげとはげとが喧嘩して どちらも怪我ねでよかったなぁ

説明は省くが、ごく単純な例ながら、オチの箇所では2つの意味解釈が同時並行的に成立する。

野村作品において提示された個々の要素は、第一義においては、だじゃれで結びつけることができたように見えるが、それと並行するもう一つの意味合いが浮かび上がるようなことはなかった。

気がつけば中心だったはずのガムランがなんとなく霞んでいき、相撲、ウイスキー瓶による演奏、綱引きが同時に進行する中、率直に言えば、訳のわからないうちに終わった。綱引きの場面で、野村氏は「「つな」がった」などと声を上げたが、「違うだろ」と思った。

美術家の田村友一郎氏は、複数のテーマを撚り合わせて、ミクスト・メディアによって作品を制作している。近作に、瀬戸市・常滑市の陶製人形と1985年のプラザ合意、それにスミス、マルクス、ケインズの経済論を組み合わせた「見えざる手」(2022)がある。田村氏は徹底したリサーチに基づき、社会的な問題を美術の観点から深く掘り下げている。野村氏の構想はこういった現代アート的手法に近いのだと思われる。しかしながら、今回の作品は、各要素の掘り下げ方、要素間の関連付けが十分とは感じられなかった。だじゃれのみでは異種の要素間の紐帯としては弱い。全体に感じた違和感の主因はその辺りにあると思われる。せっかく多くの人に関わってもらうのだから、さらに深い領域へと踏み込んでほしかった。

なお(以下は余計なことながら)、登場する要素自体についても気になった点がある。マークをあしらった揃いの法被を着込んで、本体企業への賛辞を述べるというのは、スポンサーあっての企画ゆえ、やむないことなのか。最近の、某カードを巡る企業トップの言動を考えると、いささか複雑な気分になる。

もう一つ、相撲についても、「現在進行形でアップデイトされている」(野村氏ノート)とはいうものの、角界の旧態依然とした体質はしばしば話題になるところである。たとえば、2017年の横綱日馬富士による暴力事件を受け、相撲協会は暴力決別宣言を発表しているが、その後も、しばしば暴力沙汰が報じられている(今年5月にも陸奥部屋での兄弟子から弟弟子に対する暴力事件が報じられた)。

こういった社会的な情勢に対する姿勢にも違和感が残った。
(2023年8月27日 サントリーホール・大ホール)

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