「光―呼吸 時をすくう5人」(原美術館)

 原美術館が閉館してしまった。わたくしは決して真面目な鑑賞者ではなかったけれど、雰囲気のある建物の中でさまざままなものを観て、ああでもない、こうでもないと思考を巡らせた想い出は自分の中でそれなりの重みがある。かけがえのない場所がなくなった今、何の誇張もなく、よすがを失った思いである。
 最後の展示にはこれまでの不真面目さを繕うつもりで何度も通った。所感を記してみたい。

参加作家と作品は以下の通り(引用は展覧会Webページより)。

「光―呼吸 時をすくう5人」(会期:2020年9月19日[土]-2021年1月11日[月・祝])
・今井智己 『Semicircle Law』(2013-)
「福島第一原発から30km圏内の数カ所の山頂より原発建屋の方向にカメラを向けた」もの。「原美術館から同方角を捉えた新作を加えて展示」である。
・城戸保 『突然の無意味』
「何気ない日常風景の中で本来の役割や用途からズレた「もの」を捉え、「見る事やある事の不思議」を考察」した作品。
・佐藤時啓 『光-呼吸』
「長時間露光を駆使し、風景の中をペンライトや鏡を持って歩き回り、光と自身の移動の軌跡をフィルムに定着させるシリーズ」の新作。
・佐藤雅晴 『東京尾行』(2016年、原美術館蔵)
実写映像を忠実にトレースしたアニメーションで独自の表現を追求。本展では5年前に五輪へと向かう東京の姿を撮影しトレースしたを展示
・リー・キット インスタレーション『Flowers』(2018年、原美術館蔵)

〇今井智己作品
 福島第一発電所へ向けてさまざまな場所から撮った写真たち。カメラを向けてシャッターを押す、つまり視線を向けてしっかりと見ることは、思うこと、すなわち、忘れないことである。もしかしたら祈ることかもしれない。この小さな列島で、わたくしたちはどこにいようともその視線を忘れることができなくなった。

〇城戸保作品
 蛇腹式カメラ、デジタル・カメラなど、数種の写真機を使い分けての作品群。いずれも撮影後に画面上で操作を加えているとのこと。作家は午前中や日暮れ時の光を好むという。モノとその影の形の相互作用によって不思議なドラマが生じる。ごく当たり前の風景が奇妙な味わいを帯びて見えてくる。本来は3次元であるモノたちを2次元に投射することを通じてモノが異化されてしまうのである。加えて、故意にフィルムに光を入れる、遠近複数の物体に局所的に焦点を当てるなどの行為を加えることで非現実的な画面が創出される。写真というよりもはや「画」であって、見応えがある。同時に、どの写真にも朝や夕方の明るい光に温かみが感じられる。モノたちを慈しむような作家の視線によるものだろう。

〇佐藤時啓作品
 長時間露光によりペンライトや鏡で光の筋や点を描く。原美術館の階段や裏庭の飛石に一筋一筋引かれた光の線はそれぞれがこの場所に暮らした/この場所を訪れた無数の人々の軌跡のようである。目には見えないはずの時の重なりを丁寧に可視化している。

〇佐藤雅晴作品
 実写の映像を観るとき、鑑賞者はそこに、元の被写体が備えている奥行きが存在するかのように捉える。その中にアニメーションが侵入する。それを鑑賞者は頭の中では実写と地続きと解釈する。しかし、アニメーションを構成する一枚一枚の「絵」は本来的に平面なのである。この不一致に気づくと、奇妙な居心地の悪さに襲われる。
 作家が手ずから描いたセル画の微かな震えは極めて強いリアリティを持つ。鑑賞者がリアルと思い込んでいた実写のほうが妙に現実感を失い、虚ろにみえてくる。

〇リー・キット作品
 プロジェクタが正面の壁面に投影しているのはただの光のように見えるが、よく見ると細かい網目模様が映されており、左半分は薄い黄緑、右半分は白色の光である。白色の光の当たる部分の壁面に掛けられた平面作品には、下方に女性の頭部を斜め後ろから捉えた画像、上方に何かの影がプリントされ、「花か枝の選択」と謎のような言葉が記されている。キャンバスの地は淡い黄緑で、左半分の光の中から抜け出してきたかのように見える。展示室正面の壁面に向かって左側の面は大きな窓である。窓にはスクリーンが下されており、日のある時間帯は外光によって外の樹々の枝のいろいろな影が映る。プロジェクタが投影する網目はどうやらこのスクリーンの生地を模しているようだ。ということは、窓と正面の2つの面をいずれも支持体として扱っていることとなる。
 この左手の窓からの光が正面の壁面へ入っているかのような錯覚が生じる。また、右半分の白色光は展示室の入り口から光が差し込んでいるかのようにも見える。つまり、2種類の光線がちょうど出会っているかのように見えるのである。
 このように本作では、本来の光源か見せかけの光源か、本来の影か見せかけの影か、本来的な支持体(壁面)か臨時的な支持体(スクリーン)か、そして、本物のスクリーンか見せかけのスクリーンか、というようにいくつもの「対立」が輻輳する。同じ樹について「花か枝か」という作者の謎かけは、映像か図像かの選択や、支持体の選択を含んでいるのではないか、などと考える。
 一方、作家の創作にはしばしば政治的見解が含まれるという。とすると、右半分から抜け出したかのように見える平面作品は、作家の故郷である香港のメタファーとも見える。黄緑の光が窓、すなわち中国(main land)の延長だとするなら、白色光の当たる面積、すなわち名目上「一国二制度」とされる領域のほうがずっと小さい。しかも、網目は白い光の中にも投影されている。平面作品は孤立し、すっかり網目に絡め取られているかのようである。ここでも香港とmain land との「対立」が生じている。この見立てが成り立つならば、「花か枝の選択」という言葉も意味深長である。つまり、枝(=社会の基盤である政治体制)か花(=その上で花開くはずの言論をはじめとする文化)か、どちらをとるのか、と言えようか。二者からの「選択」は必ず「対立」を前提とする。現在の香港市民には選択の余地など与えられていない。作家の憂いはそこにある。
 繊細な構成の中に、いくつもの対立が内包され、一見穏やかだが、実は極めて強い緊張を孕んだ作と言えよう。

1階展示室では佐藤雅晴作品の一部である自動演奏のピアノがドビュッシーの「月の光」を奏でていた。きっとこの曲を聞くたび今回の展示を思い出すのだろうなと思う。最後の展示が絵画や立体ではなく、写真や映像作品によるものとなったことは、偶然ではないはずだ。当館での過去の展覧会を思い起こしてみると、多くは「現代における観ることの意味」を鑑賞者に突きつける姿勢が通底していたと感じる。観ることを直接俎上に上げる映像は、そういった哲学をすんなりと伝える。いささか情緒過多気味の「月の光」の音色とともに、今回の展示は不思議な色合いと光を帯びつつ長く記憶されることとなった。

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