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2台のデジタルピアノによる演奏会「白と黒で」 本荘悠亜/横山博

●プログラム●

ホルスト: 組曲『惑星』より木星 "ジュピター"
ラヴェル:ソナチネ(本荘悠亜氏)
小杉武久: Distance for Piano(横山博氏)
スティーヴ・ライヒ: Piano Phase
ドビュッシー: 白と黒で

音響:オタイオーディオ株式会社(電子ピアノ専門店otto)、エレクトロボイス(ボッシュセキュリティシステムズ)
照明:植村真
撮影:まがたまCinema

●主催:本荘悠亜 ●協力:オフィス・ゼロ ●音響:オタイオーディオ株式会社(電子ピアノ専門店OTTO)
●助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【スタートアップ助成】

正方形に近い長方形の会場、中央に設えられた小さな舞台に、2台のデジタルピアノが向かい合わせに置かれている。客席は舞台を四方から囲む。会場の四隅にスピーカーが設置され、ピアノの音は4つのスピーカーを通じて流されるので、聴衆は前方や後方からの音を聴くこととなる。

本荘氏のプログラム・ノートによると、このコンサートは「『デジタルピアノを用い、音響制作やスピーカーを介した音現象』は、果たしてクラシック音楽の真正な演奏楽器として受け入れられるものなのか?」と問うものだという。

ノートの中でさまざまな考察を経て、本荘氏は次のような結論に至る。

「デジタルピアノは、(1)グランドピアノに対して機能的優越をもたらす、優れた代替手段でありながらも、(2)コミュニティの内部から適切に改良されており、演奏コミュニティの伝統や、ピアノ業界の熟練スキルのヒエラルキーに対しても逆らわない という二面性を備えた楽器である」

その上で、デジタルピアノは、アコースティックピアノの調律と、運搬可能性という課題をクリアすることで、従来の「所与の楽器へ対応してゆくこと」から演奏者を解放する(という趣旨だと筆者は解釈した)。調律に関しては、特殊な調律法にも瞬時に対応できることも大きいだろう。

気になった点は二つある。一つは、スピーカーによって形成される音像の問題である。2曲目のラヴェルで、後方スピーカーからの音が明確に意識される瞬間があった。すると、弾いている手指は前方に見えていて、音は後方から聴こえる。つまり、見えている楽器とは異なるところから音が聴こえてくる状況となった。1曲目は有名曲ということもあったせいか、「腹話術効果」が機能していた、すなわち、楽器自体から音が発されているかのように感じられていたのだと実感した。すなわち、この「腹話術効果」の精度を如何にして上げていくかという課題がある。

もう一点は、デジタルピアノの響きである。デジタルピアノは、記譜された音を正確に出すことはできる。だが、アコースティックピアノでは、一つのキーを叩いた際に、かなり大きな楽器の共鳴体(筐体)のさまざまな部位や他の弦において、共振が生じているのではないか。また、ドビュッシーの第2曲目で、低音部のキーを押さえた状態で高音部のキーを叩く場面があった。こういう箇所で、アコースティックピアノならば、フラジオレットに近い効果が生じるはずである。デジタルピアノではそういった響きが無いように感じた。作品がアコースティックピアノを用いて作曲されている場合、また、アコースティックピアノが演奏楽器として指定されている場合、作曲家はそういった、記譜外の音響も考慮に入れて書いているのではないか。特に、20世紀の諸作品となれば当然であろう。この辺りのデジタル/アコースティックの差分は依然として課題なのではないか。再現芸術としての音楽ならではの課題とも言える。

これら二つの課題は、いずれも多数のパラメータ間の調整を、如何に計算によって折り合わせるかという、高度に技術的な問題なのかもしれない。
システムの実用性を高めるにはコストを抑えることも不可欠であろう。どこまで計算の精度を上げられるかといった問題に収斂するか。

現状、一点目の腹話術効果に関してはかなりの精度が得られていると感じたけれど、依然改善の余地がある。また、二点目の音響そのものはもう少し手間がかかるのではないか。お二人がめざしている目標まではまだ距離がありそうに思う。

また、今回の「スピーカーつきデジタルピアノ」は、マルチチャンネルを駆使した音像移動など、新しい創作にも繋がりうるだろう。このシステムは、ピアニストを従来の桎梏から解放するのみならず、ピアノの響きを筐体から解き放つ可能性があると思った。意欲的な試みの今後に期待したい。

なお、現在のデジタルピアノは、素人の感覚では鍵盤のタッチが、アコースティック・ピアノにかなり寄せてあると思う。打鍵の際に感じられる重み、それを押し込んで初めて発音するレスポンスには、一種アコースティックピアノに近いアフォーダンスのようなものがある。お二人の演奏を聴きながら、タッチに関してはかなり忠実に再現していると感じた。

ホルスト作品は冒頭の細かい音符が乱れたのが残念。アンコールのほうはばっちりだった。

ラヴェル作品は線が細めだけれど、明晰な演奏。

小杉作品は、奏者が柄の長いモップを構え、少し離れたところから、モップやスキージーで鍵盤を押す。どの音が鳴るかは、偶然性に委ねられている。途中でプリセットされたショパン作品の再生のスイッチが入り、柄による演奏と重なる。こうして、意思のある演奏者は舞台上から姿を消してしまう。この作家らしい作品だと感じる。

ライヒ作品はパターンが変化したときに立ちあらわれるふしが非常に明確。上で触れたような記譜外の音がない分、メロディの線が鮮明に見える。

ドビュッシー作品は切れ味がよく、聴きごたえがあった。(2024年2月25日 中目黒GTプラザホール)

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