見出し画像

低音デュオ第15回演奏会〜花、生きもの、大量生産〜

曲目:
山根明季子/水玉コレクションNo.12(2011)
川上統/児童鯨(2016)
鈴木治行/沼地の水(2009)
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
山本和智/高音化低音(2017)
まとばゆう/色とりどりの花(2023, 委嘱初演)
川崎真由子/低い音の生きもの(2023, 委嘱初演)詩:小笠原鳥類
山根明季子/大量生産1, 2, and 3(2023, 委嘱初演)

出演者:松平敬(バリトン)、橋本晋哉(チューバ)

山根作品…リズムをほぼ保持したまま、5拍子のフレーズが次々に変容していく構成は、シャコンヌに擬態したものと思われます。一種の変奏曲ながら、どこから始まるのでもなく、どこにも行きつくことのない迷宮。この作家ならではの「カワイイ」の中で、いつまでも迷子になっていたいとさえ思いました。10年以上前の作ですが、この当時から山根氏は、先の「ゴシック・アンド・ロリータ」公演で析出された、ゴスロリ的素性を発現していたのだとわかりました。

川上作品…非常に興味深く聴きました。この作家の作品の根底には、控えめな詩情が常に流れていると感じます。ですが、それは決して安直なセンチメンタリズムなどではなく、生き物、あるいは生命に対する、作家の率直な関心と思われます。松下氏の発するクリック音の美しさ。二者は徐々に接近してグルーヴ感を生み出します。

鈴木作品…ナレーションが演奏を記述するのですが、実際の演奏との間には絶えず乖離があります。その乖離が進んで壊滅していくような趣向があっても、と思うのですけれど、音楽は破綻しないまま、微温的に終わります。

山本作品…「低音」を「高音」化するというのはどういうことを志向しているのでしょう。人間がある音を「低音」と捉える場合、さまざまな倍音が含まれているなど、単純な話ではないということはわかります。だけれど、例えば聞こえをなんらかの方法で変形・調整するなどするのでなければ、文字通りの「高音化」は達成できないはずです。かつ、実際にそれが達成された瞬間、その音はもはや「低音」ではなく、単なる「高音」なのではないでしょうか。意図が掴めないまま終わりました。

まとば作品…驚くほど素直な歌曲。いささか肩透かしを食らった感がありました。でも、一度しか聴いていないのに、時間がかなり経ってからも、なんとなく耳の奥にメロディーが残っていることに驚きます。節のちから。

川崎作品…おもしろく聴けました。日本語の歌唱に不自然な跳躍や区切りが無く、テクストがことばとしてきちんと聴き取れます。小笠原鳥類氏による詩は、シュールレアリスティックで、いくつものレイヤーが輻輳するかのようです。途中、「ウナギ」からの流れで「ウサギが、どこに、行くか、わからなかったのである。」と語られた途端、「アリス」の世界が起動されて謎がいちどきに深まります。

山根作品…声は、数種の身振りを伴いながら協和音の分散和音を階名で繰り返し歌唱します。チューバは声とユニゾンですが、音量が切り替わるなど、いくつかのパターンをとりつつ演奏していきます。文字通りの「大量生産」です。プログラム・ノートをみると、「反復、ミニマル後の文脈としてテクノ(ダンスミュージック)との接続を考え、音楽の核を構成よりもグルーブ感そのものの体感性に置いた」とあり、「思考を停止させ踊ること」「管理と奴隷、規則的感覚」などキーワードと思しきフレーズが並んでいます。しかしながら、音として聴こえるのは、もっぱら単に止むことのない生産のさまです。作曲にあたってさまざまに思索が巡らされたにもかかわらず、音楽に充分に結びついているように感じられないのが残念。例えば、生産の対として「消費」があり、その主体が存在する(ことになっている)ことがあります。消費者の想定なしには生産はない(はずな)のです。しかし、現実には、消費者とは無関係なところで生産が垂れ流され、しかも、浪費のツケを結局のところ消費者が負わされています。あえて「大量生産」を俎上に載せるのならば、そういった矛盾も合わせて表明すべきだと考えます。
また、「低音から身体的な男性性、高度経済成長期を想像した」とありますが、ややステレオタイプ的過ぎるのではないでしょうか。

お二人の名人芸を堪能しました。新しい作品たちとその作り手たちに対する視線の温かさにも心を動かされます。ただ、そのお二人の尽力に比して、まだ作品の力が十分でないと感じる部分も正直ありました。これからもっともっと作品が磨かれ育っていくことを期待します。(2023年4月19日 杉並公会堂小ホール)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?