「猫=神」論

 日本国内における自動車保有台数は今年6月の統計でおよそ8,200万台だという。巷では「若者の車離れ」などと言われて久しいが、若者に該当する世代は当然ながら日本の人口のボリュームゾーンではなく、運送業者やタクシー会社、複数台を所有する個人などのケースを考慮に入れても、依然として数多くのドライバーが存在しているということは、体感としても納得のいく事実だと言えよう。
 一方で、非常に唐突な疑問ではあるが、国内にはいったい何匹ほどの野良猫が生息しているだろうか。その確かな数は定かではないが、試しにGoogleで検索してみると、東京都内だけでおよそ10万匹の野良猫が生息しているとする調査結果がヒットする。さらに、これは交通事故以外の死因も含めた統計だが、近年のある年には日本国内の道路上で命を落とした野良猫の数は30万匹以上に及んだという。
 急に路肩から飛び出してくる野良猫。間に合いようもないブレーキ。鈍い衝撃。そして、ひとつの命の死。それは私たちドライバーが日常的な運転のあいだに最も頻繁に想定するであろう、極めて発生確率が高い悲劇のうちのひとつだ。

 歩行者や自転車への注意には決まったポイントがあり、気をつけなければいけない場所や状況を頭に入れておけば、基本的には危険を避けることができる。それは人が自動車を危険な物体として認識したうえで行動するからである。その行動パターンから外れた行動をとることが考えられる主な注意対象に子どもが挙げられるが、子どもがいそうな場所をドライバー側が察知したうえで徐行することで、事故を回避するための対策をとることが可能となる。
 そう、この上記の点に当てはまらないのが、野良猫の恐ろしいところだ。野良猫の行動パターンには想定不可能な行動が複雑な混合戦略のごとく混在している。さらに野良猫はどこにでもあらわれる可能性がある。それがたとえ幹線道路や、人気のない広い田舎道であったとしても、野良猫は急に路肩から飛び出しうる。これでは対策の講じようがないではないか……まるでロンドンの天気のように淀んだ不安に襲われると、その可愛らしい外見を愛するがゆえに微かな怒りさえ覚えそうになり、言葉が通じる相手ではないではないか、たとえ不可能でもこちらがなんとかする以外にないのだ、そう自らを戒めた経験も記憶にある。
 実際には、幸運なことに、私には野良猫を轢いてしまった経験はない。だがそのギリギリでなんとか衝突を回避した回数となると、数えきれない。そしてその無数のヒヤリハット体験に肝を冷やされるうちに、私の胸中に、あるひとつの極めてシンプルな問いが生まれていた。
「いったい猫は何を考えているのだ?」

 いったい猫は何を考えているのだろう。これはひどく難しい問いのように思えた。猫たちの行動は基本的に突拍子もないものだ。そしてポーカーフェイスだ。不可解な行動をとりつつ、その意図を読み解くための鍵を私たちに提示してくれるような親切なことはしない。トム・ドワン(※1)のリバーのベットより読み解くことが難しいとさえ言えるだろう。
“Est-il dieu?(神か?)”
 かの聡明な哲学者サルトルも猫の理解には手を焼き、上記のような迷言を残している。サルトルに理解できないものを、どうして私が解することができるだろう。歴史に目をやると、人類には人智の及ばない事象に関して、とかく神の仕業だと決めつけることで無理やり腹落ちさせてきた節がある。私は科学的ではないものは信じない。だが、猫に関しては、その信条を曲げざるを得ないかもしれない。そう、猫とは神だ。
「いったい猫は何を考えているのだ?」
 神の考えを、いったい誰が知ろうか。

         ーーーーー

※1 米国出身のポーカープレイヤー。ベット後、まるで何かがキマったかのような表情をして動きを止めることが頻繁にあるため、その挙動からブラフを見抜くことが難しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?