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Paris 13

 フロールの席を立ち、街の雑踏の中へとふたたび戻ると、まだ明るいうちにーーとはいえ、5月のパリでは遅い時間まで日は沈まないのだがーーヴィンテージ・パリへと戻ることにした。翌日からのことを頭の中で整理しながら、北駅の方面へとゆっくり歩いた。過ごし慣れたヴィンテージ・パリを、翌朝にはチェックアウトしようと決めていた。そしてパリの中でも少し変わった宿へと、ヨナスを連れていく予定だった。

 道中で馴染みの屋台に寄り、ハムとチーズのガレットを買うと、ホステルのロビーで軽い夕食を取った。ヨナスはしばらくして上階から降りてきた。「明日からの宿の確認が取れた。スウェーデン人でも問題ないそうだ」と伝えると、「じゃあ明日にチェックアウトしよう。決まりだ」と、即答だった。これで私のヨーロッパ放浪に残された最後にやらなければいけないことのうちのひとつが、無事に済んだ。

 その宿はパリの郊外にある日本人専用の宿だった。バックパッカーをもてなす日本人宿は世界中に存在する。そのひとつがパリにもあると、どこかで聞いたことがあった。とにかく宿代が安く、食事が付き、南京虫が発生するという噂もあるーーよくある安宿だ。そして旅先で同じ日本人しかいない宿に泊まるということに、私はまったくと言っていいほど興味がなかった。

 しかし私が目をつけたのは、この宿が週末の金曜日と土曜日でも宿代を変えないという点だった。私の知る限りパリにそのような宿は他に存在せず、大半は倍の値段を要求した。これは旅人には痛い。だから多くの人が週末の夜行便で次の目的地へと越境する。週末の度に野宿をしているような今のヨナスに、これ以上の旅が難しいことはわかっていた。スウェーデン人であれば就労することもできる。ねぐらをひとところに定めて体勢を立て直させたいという、私のおせっかいだった。

 部屋に戻ると、ニューヨーク・バッファローの大男が明るい声をかけてきた。

 「バス会社と連絡が取れたぞ。少し際どいな。でも、お前の荷物は無事にバスに載せられると思うよ」

 全ての手配が済んだ。翌日には帰国用の私のスーツケースがパリへと届く。それを運んでくれる友人へと報告を入れると、ヴィンテージ・パリでの最後の晩をゆったりと過ごすことにした。フロントに降りてビールを買う。それを一気に飲みながら、エントランスの外で煙草を吸った。私と入れ違いに、大きなバックパックを背負った若者たちがホステルへと入っていった。今、いったいどれくらいの人々が旅に刺激を求めてカバンひとつで世界中を移動しているのだろうーー。私はもうすぐそこから離脱するのだ。ずっと見えなかった旅の終わりが、このとき、初めて見えた。その終わりのあまりにも普通なことと現実感を伴わないことに、どのような感情を抱けばいいのか、何を思案すればいいのか、私にはわからなかった。

続く

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