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Paris 3

 何度目かのパリだったが、朝のモンマルトルを訪れたのは初めてだった。普段は観光客で溢れかえる土産物屋の並ぶ通りにも、人の影はほとんどなかった。丘の入り口へとつづくその通りを抜けると、私は左回りのルートで頂上へと上がることにした。モンマルトルの頂上へと抜けるルートはいくつかあり、そのうちのいくつかでは、ミサンガ売りの黒人が有名だ。人手の多い昼の時間になると彼らはその狭い道の真ん中にたむろして、通り過ぎようとする観光客の腕に強引にミサンガを巻いて高い料金を請求する。私はこの類の被害に決して合わないタイプだが、かつての知り合いで、ミサンガ売りに囲まれて無理やり金を奪われた青年がいた。

 丘の上から眺めるパリの景色は、人生で一度は見る価値があると言っても差し支えないだろう。私はこの景色が好きで、日が沈む時間帯を狙ってはよく訪れたものだった。ひとりで考えに耽ることもあれば、誰かと長いあいだ語らうこともあった。かつてここで語り合った友人たちの姿を、その上空に日が昇ったパリの街を見下ろしながら、思い出していた。ロシア、オーストラリア、イギリス、フランス、日本ーー遠く離れた国々にいる彼らにも、私のことを思い出す瞬間があるのだろうか。それは不思議な感覚を伴った空想だった。他人の記憶の中に自分がいるということ、それを上手く想像することはできなかった。

 かなりの時間が経過していることに、私はふと気がついた。意識を空想の世界から引きずり戻して周囲を見渡すと、丘の上はすでに観光客たちで賑わい始めていた。日曜の朝のパリの街も、そろそろ起き始めた頃だろうか。眼下に広がるその街へと、私は下っていくことにした。

 9、10、18の三つの区が交わるあたりに出ると、再びタバックへと寄ってダブルのエスプレッソを注文した。宿泊予定のヴィンテージ・パリ・ホステルのチェックイン時間は15時だったが、客がチェックアウトを終える11時過ぎにはクロークに荷物を預ける体で中に入り、フロントで休むことができる。タバックのテレビから流れるニュースを眺めながら11時まで時間を潰すと、私は席を立ち、長居させてもらった礼をマダムに言った。そんなこと良いのよ、といった表情で、マダムは「良い一日を」とお決まりの言葉をかけてくれた。あなたも良い一日を、彼女にそう告げると、私はホステルへと向かった。

続く

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