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Paris 5

 目が覚めたのは夕方だったが、手元の時計よりも先にまず視界に入ったのは、いつのまにか部屋の中にいた大柄な男だった。反射的に体を起こして挨拶をすると、男は早口だがトーンを抑えた穏やかな声色で「起こしてしまって悪いな」と、一言謝った。アメリカだな、と思った。西と東のどちらか、少なくとも明らかに南部の訛りではないだろう。話してみると、やはりその男はニューヨーク・バッファロー出身のアメリカ人だった。

 バッファローの人間に会うのは初めてだ、と私は少し嬉しく感じていた。見事な髭を蓄えたその男は、それこそヴィンセント・ギャロの映画に登場しそうな風貌だ。私が日本人だと知ると、彼の方も少しリラックスしたのが見てとれた。日米間は、一般市民レベルでの親和性が高い。そこには様々な理由があるが、とにかく互いが互いの思考や感情をイメージしやすいのだ。相部屋宿の旅は常に小さな不安と期待の入り混じりだが、その晩は気を張る必要のないものになるだろうという予感が、すでに部屋の空気を居心地の良いものへと変えていた。

 「ところで、それは君の連れかい」と、私は彼に訊いた。二段ベッドの上段に座る彼の、その下のベッドに無造作に広げられた派手な女性物の下着を指差しながら。いいや違うよ、と彼は軽く苦笑いをしながら、「一人旅のロシア人だよ。昨晩から同室だ」と、事実をあくまでも必要以上の意味を含まない単純な事実として述べるような口調で答えた。その下着も、それから数時間後に会うことになるその下着の持ち主も、私の好みとはかけ離れたものだったが、彼は違ったのだろう。日が暮れる頃になると、私はときに混ざりながら、彼らの愉快なやり取りを楽しんだ。

 その夜を主にベッドの上で過ごしていたため、夜が深まるにつれて体に蓄積された疲労は少しずつ癒されていった。頭の片隅に微かな眠気を感じるのが心地良く、それは私の心をほぐして、パリの夜へと誘い始めていたーー濡れた石畳の路地の曲がり角の向こう、街灯の橙色が届くことのできない陰影から甘く上品な花の香りが仄かに漂ってくるような、パリにのみ存在するであろう夜へと。外出をするには若干の怠さがあったが、飲むには悪くない気分だ、と思った。くたびれたTシャツを脱ぎ、白のシャツを一枚羽織ると、長い廊下の先にある螺旋階段を、フロントに向かってゆっくりと下っていった。

続く

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