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Paris 9

 外し忘れた左腕の時計を見ると、朝だった。身体に怠さが残っている。目が覚めたのは、十分に眠ったからではなく、同部屋の人間たちが朝の支度を始めたからだった。ベッドから起き上がると、まさに部屋を出て行こうとドアノブに手をかけていたバッファローの男と目が合った。「良い一日を」と互いに声をかけ合うと、私は反対方向のベランダに出て、その日一本目の煙草を巻き始めた。

 火を点け、最初の一吸いを肺に入れずに吐くと、濃い紫煙がホステルと向かいのアパートメントとの間の舗道の上空に漂い、パリの朝陽に照らされた。通勤に急ぐ人々の数メートルほど真上、少しずつ広がりつつ、しかしなおそこに留まろうとする煙を眺めながら、まず考えたのは前夜のことだった。ポーランドからパリに来て暮らす男と、欧州中を回っている台湾人の女と、欧州の端で暮らしていたが訳あって国を出て、旅を続けている日本人の私。不思議な夜には慣れたが、この夜の不思議さもまた私の心を刺激するものだった。途中で女が抜け、その後も話し込んでいた私たちが解散したのは明け方、おそらく6時よりは前だっただろう。でなければ、クロワッサンを大量に抱えたパン屋の親父と顔を合わせているはずだから。クロワッサン。バターの効いたクロワッサンの香りを思い浮かべると、朝食を取ろうという気分になった。下の階に降りよう。今朝のフロントには誰がいるだろう。スペイン語訛りの女の子だろうか、若いマダムだろうか。マダムに会いたい気分だ。朝に拝む好みの女の顔は格別に良い。好きな女を口説く楽しみがその果実を実らせるのは、夜ではない。翌朝だ。朝。このところはロクな朝を過ごしていない。こんなんで良いのかーーあれこれと考えながらゆっくりと時間をかけて一服をしていると、体中の神経が繋がり始め、胃に確かな空腹感が生まれていた。煙草を揉み消し、シャツを着替えると、私は部屋を出た。

 混み合うフロントの奥に、客たちのチェックアウトに追われる可愛い女の横顔があった。気の強さと優しい女らしさとを兼ね備えたその顔は、美しいが、何よりもまず可愛らしいと形容したくなる。彼女の手が空く頃には私も外出するだろう。挨拶はその時に取っておこう、と私は右に向き直り、テレビの下のコーヒーやパンの置いてあるテーブルへと進んだ。カップを手に取り、コーヒーを注ごうとすると、ポットの中身が空だった。仕方なく、混み合うフロントの奥、レセプション横にあるもう一つのポットのところへと向かおうと、今度は反対側に向き直った。そして足を踏み出した瞬間、それまで気がつかなかったが、目の前の椅子に座ってこちらを見上げている男の姿が視界に入った。

 男は、アムステルダムの公園で別れたヨナスだった。

続く

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