バーにて

数年前の初夏の日に、都心のある狭い店のバーカウンターで、驚くほどに美しい女の子に出会った。

乾杯をしても、彼女はグラスを口に運ばなかった。代わりに、初対面の私の目を子どものようにじっと見つめたまま、ひとつの不思議な話を始めた。

「ねえ、平安時代、知ってる?」
「うん」
「私このあいだね、見てきたの。平安時代」

彼女の口角が上がる。嬉しそうに。企むときの表情ではない。あえて自然な表情を作っているのだろう。いたずらで演じている。

「平安時代を見てきた?」
「ちょっと行ってきたの、平安時代に」

ユーモアのある優しい子だ、と思った。ユーモアのある発言、つまり人を楽しませようとする姿勢は、優しさのあらわれだ。

「へぇ。どうだった?」

話に合わせて、軽く乗っかる。

「あのね。平安の人は本当にあれ被ってるの、あの帽子ーー」
「エボシ?」
「そう!エボシ。でも私がいたのは町で、そんなに多くなかった。エボシ被ってる人は。町民がいっぱい歩いてるの」

頭の片隅に平安時代の町を思い浮かべた。そこには犬もいるのだろうか。

「町には犬とかもいるの?」
「犬…… いたなぁ。けっこういたかも」

けっこういるのか。

「やっぱり吠えてた?」
「ううん。みんな野良犬だけど、おとなしかった」

平安時代では犬も雅なのだろう。

「人が話す言葉は? 現代の音とはやっぱりちがった?」
「うん、ちがうんだけど、でもなんとなくわかるの」
「単語はわかる、みたいな?」
「そうそう。そんな感じ」

いけない。変なところに迷い込んでしまった。私が曖昧なボケをしたからだろう。彼女は自分で始めたふざけた話の着地点に迷ってしまっている。私の側から、パラシュートを開かないと。

「いや、いいな。おれも一度、平安時代に行ってみたかったんだよね。今度行くときは一緒に連れていってよ」

そう言って、私は滑稽に見えるであろう表情をした。彼女はふざける子どもをあしらうように、軽く笑ってくれるだろう。何言ってるの、犬がどうのとか言い始めるからつい私も乗っかっちゃったじゃない、とーー。

「いいよ。でも大丈夫かな、行ける人と行けない人がいるから…… でも、行けそうだね」

彼女の口角が上がる。嬉しそうに。企むときの表情ではない。それは彼女の自然な表情だった。これがいたずらで演じているのであってくれたらよかっただろう。だが、いたずらでも演技でもない彼女の笑顔は、驚くほどに美しかった。

「行けそう? じゃあ、楽しみにしてるよ」

ふふ、と小さく声に出すと、彼女はまた私の目を子どものようにじっと見つめたまま、満足そうに微笑んだ。

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