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Paris 8

 女が一人、入ってきた。ドアノブにかけられた白く細い手首と胸のあたりまで伸びた薄茶色の癖のない髪が、光として私の角膜へ届き、視神経を通じて脳へと伝達すると、濃い匂いを伴うような強い印象として認識された。顔立ちや服装、背丈といった全体像を把握したのはその後だった。アジア系の若い女だった。直感的に日本人ではないだろうと思ったのは、近年の欧州で見かけるアジア系、正確には東アジア系の若者のほとんどが中国や台湾、韓国からの旅行者や学生で占められているからではなく、彼女の目鼻立ちに海を隔てた向こうの刺激的な香りがほのかに漂い、扉を開閉してフロントへと入る一瞬の所作に漏れ出した雰囲気が、私が知る日本人のそれと、ほんの僅かだが異なっているように感じたからだった。

 私とマーチンの会話が一瞬止まった。しかしレセプションと扉との間では流れる音楽が緩衝材の役割を果たし、不自然な突発的空白が生んだ空気の感触(それは<そこに本来あるはずの感触がない>という感触だ)は、2メートルほど離れた彼女にまでは伝わらなかった。横目でレセプションの方向を捉えると、彼女は少し離れた席へと落ち着いた。身体はこちらを向いていたが、その軸から顔だけを30度ほど捻ったかたちで、視線は交わらなかった。私たちは今度は、宿の受付で酒を飲んでいる二人の間にあるはずの空気の感触を、そこに作り出さなくてはならなくなった。不自然にならないよう、段階的に。スムーズにギアチェンジを済ませると、再び流れに乗った。法定速度をやや上回る程度、追い越し車線で目立たない程度に。高速で切符を切られるときは、決まって目立ちすぎているものだ。

 バックミラーで後続の車の位置を確認するときのように、無意識にフロントの隅に座る彼女の様子に気を配りながら、私たちは会話を続けていた。話は、やや政治的な内容に及んでいた。ポーランドにルーツを持つ者とこの種の話になるときは、大抵は二つの話題のどちらかだ。一つは西欧におけるポーランドないし東欧からの移民が直面する移民差別、そしてもう一つは、彼らにとっての祖国・ポーランドが抱える対ロシア問題。このときは、この両者ともが話題に上がっていた。しかしマーチンは決して具体的な言及はせず、それと分かるような単語はぼかし、多彩な語彙による言い換えを用いて、あくまでも抽象的な対象について論じる格好を保つことを好んだ。それは彼が単にスマートなだけでなく、取扱いの難しい問題を語るための必須条件である繊細な感受性を併せ持ち、そしてこういった類の議論を今までに何度も重ねてきた証拠だった。並行して女や旅の話などにも道を逸れつつ、気がつけば夜はさらに深まっていた。

 そのビールは開け忘れていた二本目だっただろうか。もしくは三本目かもしれない。いずれにせよ、私たちはそれを開栓すると、少し離れたところにいた彼女に勧めた。彼女はそれを快く受け取ると、私たちの席へと混ざった。

 台湾から来た同年代の女だった。しばらく三人で話すと、急にマーチンが「地下で仕事をしてくる」と言って、わざとらしく席を立った。一時間ほど前に彼女が入ってきたのと同じ扉を開けながら、彼は私にだけ見えるように片目を瞑り右手の親指を上げると、階下へと早足で消えていった。可愛いところもあるじゃないか、と私が一人微笑んでいるのを、彼女はただ不思議そうに眺めていた。

続く

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