温度 (連載)

[1]

その時間、横に座る彼女の黒のニットだけが部屋の中に存在しているように思えた。清潔さと強さを混ぜ合わせた黒は弱さを纏わない彼女にとても似合っている。指先には薄めのネイルが見え、その匂いが目の前で暖房の風に揺られていた。しなやかな曲線は目の隙間から艶かしさを届けては消えて行く。そろそろ裸足になった足先から冷たさが浮かんでくる頃合いだった。冬の咳き込むような冷気は、葉を砕き細分化する残酷さを持ち合わせていた。部屋を覆うグレーの壁紙は寒さを加速させていて、僕は少し暖房を強める。
「勝手にいじらないでよ。」
飛んでくる彼女の声は心を守る棘であり、なんだかささくれ立っている。昼過ぎの時間帯に似合わず外は薄暗くなっていて、窓から覗くともうすぐ雨が降りそうな空模様に見えた。視界に映る鈍色は水滴によって滲んでいき季節を荒涼としたものにさせていく。目の前のテレビに映る赤い車だけが僕らの前に投げ出されて意味を模索していた。彼女は瞼をこすりながら抽象的な映像を見続けている。僕が見たいと言ったその映画は三時間もある長い作品だった。透明で冗長なその映画はみるからに娯楽性が欠けていて当たり前のように彼女は見るのを反対した。
「難しいの私わかんないよ。」
声は少し低く響き部屋はそれを吸収することができない。僕が不機嫌そうな顔を窓に向けると、彼女は先週興味のないドラマに付き合わせたのを思い出したようで渋々許してくれた。彼女と会う時は部屋で映画を見ることが多かった。映画を見る時喧嘩にならないよう、僕たちは交互に見たい作品を選んでいた。それが僕と彼女の間にある少なからずのルールだった。

視線を画面に向けながら僕は彼女のことを考えることが多かった。劇的なシーンが眼前で推移していく間にも、横にいる彼女の妖しい熱が映画に入り込む余地をいつも奪っていた。彼女の中にある微細で、それでいて抑えつけ難いエネルギーが僕には救いようのない木々の揺らぎに見えた。長く一緒にいる間、その紫色をした森林の熱を僕は彼女に何度か伝えようと試みることがあった。それは言葉が音を持つ直前まで意味を持っているはずだった。寂れた飛行場に響く拍子抜けた轟音と滑走路の無機質さがクロスして空虚な模様を作る。寄り添って眠る体からは結局、そんな風景しか語ることができなかった。  

「なんでこの人泣いてるの?」
映画は中盤に差し掛かっていて、どうやら中年の男が友人の死を悼んでいるシーンだった。彼女の声からは思いやりはまだ抜け落ちていない。誰かに与えるべき共感は吹雪の中にある一つのシミに変えられるかも知れないからだ。遅れてきた救助部隊が山肌にしがみついている遭難者を笑っているイメージがなぜか頭の中に浮かんできて消えない。
「泣いてるふりじゃない?」
また嫌なことを言ったと思うことはできた。
「そうなのかな?」
「後の展開を考えるとそうだと思うけど。」
「私は違うと思うけどなー。」
「どうして?」
「泣いてる人を見ればそれぐらい分かる。」
握った手の底から感じたことのない緩やかさが伝わってきて胸から肩に逆流した感情が広がっていく。

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