携帯を見ると待ち合わせの時間はもう少し先だった。指先をもう一度確認してスカートの裾を直す。お盆前の駅の構内は目まぐるしい速度で人が行き交っていて、改札前で誰かを待っている人は少なかった。額に汗が滲んできて慌ててハンカチで拭き取る。夜になっても八月の暑さは手加減を知らないらしく、じりじりと構内を染め上げていった。目に映るキャリーケースを持つ人たちは遠くの街を考えながら歩いている。嬉しそうな顔で携帯を覗き込んでいる中年のサラリーマンは単身赴任中とかだろうか。子供はいるのだろうか。それぞれの街に還っていく足音達は不揃いだけど綺麗な旋律を湛えていた。
足早に改札を通っていく人たちを見ていると、なぜか昔好きだった鯨の体内を描いた絵本を思い出した。その絵本には体の仕組みが擬人化して描かれていて、私は一人一人の表情まで細かく書き分けられているのがとても好きだった。喧嘩をしている臓器達の生き生きとした動きは子供の頃の記憶に強く残っている。どこからか耳をつんざくような駅員のアナウンスが流れてきて、列車の遅れを告げているのが聞こえた。絵本の世界はいつしか消え、目の前には忙しさで溢れた駅だけがある。どうやら二駅隣で人身事故が起きたらしい。携帯を開き時間を確認するとちょうど八時になっていた。彼からの連絡はまだ来ていない。底のないような夜の黒さを見ながら、またしばらく待たないといけないと思った。目の端に猫背で優しそうな中年の女性が点字ブロックにつまずいて転びそうになるのが見える。渦のような人の中でなんとか転ばずに済んだ女性は気がつくと見えなくなった。手持ち無沙汰になり、なんとなく彼とのメッセージ画面を開く。彼のメッセージはいつも几帳面だった。砕けた文面を送れない病気にでも罹っているみたいで、ふざけた会話をしてもいつも句読点が付いていた。周りの友人達とはどんな風に接しているのだろう。彼はきっと生真面目な世界にしか生きていないのだと思った。振り返るように過去の画面をスクロールしていると、唐突に彼からメッセージが来た。
「もう少しで着く、遅れてごめん。」
相変わらず遅れる理由については触れていない。胸の奥でホッとしている私がいるなんて彼にはずっと分からないのだろう。彼の生きている鈍さに少し腹が立ちながら手ぐせのように文字を打ち込む。
「貸し2ね。」
打ってしまった後で夜風に心地よい気怠さが乗った。誰かと過ごすことの苛立ちとくすぐったいような甘さは抱き合うように私を包んでいた。なんてことはないように、いつしか私にも句点をつける癖が付いている。浮ついた心を整えるように背伸びをし、内カメで前髪を直した。余計な癖が身につくたび、小さな彩りが添えられていく感覚を最近は受け入れられる気がしていた。後ろの方から電車がホームに滑り込んでくる音が聞こえる。彼は乗っているだろうか。頭上にある掲示板には復旧の文字が点滅するように浮かんでいた。

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