「思い出す」という行為はなぜ甘美なのか?
唐突なタイトルですが、今回は「思い出す」という不思議な行動について考えていきたいと思います。
このテーマを書くきっかけはきのこ帝国の「猫とアレルギー」を聴いたことです。元々きのこ帝国というバンドはインディーシーンで活躍する、シューゲイザー寄りのオルタナサウンドが魅力のバンドでした。ですが、「猫とアレルギー」という曲はこのバンドのメジャー移籍後に書かれました。そのため歌物とバンドサウンドを両立させながら、多くの人に届くような強度の高いメロディを持っています。
歌詞には、猫アレルギーを持つ男性を女性目線で思い返している描写が綴られています。
この曲の持つ、夜の部屋に一人で座りながら誰かのことを考え続けているような、そんなピュアな献身性が漂う空気感は確かな切実さを持って胸に響きます。繰り返される「アレルギーでもあなたは優しく撫でた」という短い一節は彼の人間性とそれに対する深い愛情を感じ取れて、とても広がりがあるものになっています。別れた恋人を想う時、それは時に未練とネガティブに呼ばれたりもします。それはその感情が選ばれなかった自分への安易な自己憐憫に転化してしまったりするからかもしれません。そこでは想っている対象はある意味で無視されています。一方、この曲の女性は否応なしに大切な人を思い返してしまっています。
この部分はちあきさんの声も相まってとても切実に聞こえます。自分自身の感情の昂りに対して誇張も卑下もせずにそのままに記す歌詞は筆者にはとても誠実な表現に思えるのです。
この曲が持つ強烈なノスタルジーはどこからくるのでしょうか。誰かを思い出すという行為に付随する危うい甘さはなぜ生じるのでしょうか。そもそもノスタルジーとはなんでしょう。筆者は一時期そういう感情についての論文を読み漁る時期があったのですがしっくりくるのがなく結局よくわからずじまいでした。
この件についてぼんやりと筆者が考えているのが、ここにはないものであることに意味があるのではないか、ということです。思い出すという行為には喪失が先立ちます。そして、失われてしまった何かはその時点で価値が確定しています。今ある諸々のことは価値が無くなるかもしれない。そのことを知っている人には不確定な現在よりも揺らがない地盤を持つ過去に魅力を覚えてしまうのではないでしょうか。
またよく過去は美化されていくという言説がありますが、そうではなくて人間にはどう思い出すかを自分で決める権利があるというのが正しい表現ではないでしょうか。上記の文は「さよなら絵梨」からの引用になりますが、思い出すという行為の中は、客観的に見て整合性の取れないことでも自分なりの価値観を守れる領域であります。たとえ思い出す対象が悪い物や人であっても、自分の中では良いと言えるのです。
どうでもいいことですが、筆者はパーソナリティとしていつも過去に後ろ髪を引かれる傾向があります。昔から先を見るよりももう過去のものとなった感情や行動について考えてしまう癖があってそれはなんでなんだろうと思っていました。
今回この記事を書くにあたって少し考えてみたのですが、それは思い出すという行為は様々な事象を因果関係の渦から救い出すことができるからなのかなと思いました。人間は大人になるにつれて様々な経験をすることによって、いくらかは人生で遭遇する事柄に予想がついてしまうようになります。自分がこう動けば、相手(社会、他者)はこう動く。相手が今こう動くから、自分はこう動く。因果関係を分析して人生を最適化していく。そうしたことを繰り返していくと次第に感情が無視されている感覚になっていきます。機械のようになって本音がいつしか分からなくなるようなそんな感覚です。(これは極めて私的な感覚かもしれません。)そんな時筆者は思い返すという行為を通して感情の動きを取り戻します。確かにあの時の自分には強い衝動や感情の揺れが存在していた。その事を再確認することで現在の自分にも地続き的にそれを感じようとするのです。
これは自分自身の感想にすぎないので普遍的かどうかは分かりません。それでも筆者は思い出すという行為には意味があると信じたいです。何も思い出せなくなってしまったらそれはもう自分ではない気がします。
人生の中で前に進む決断はそれぞれに訪れます。それは職場や学校などの環境であったり、仕事や勉強などの労務に左右されたりもします。気がつけば意図しないところにいて、自分の立ち位置に疑念を持ってしまうかもしれません。そんな時私たちは少し過去を振り返り、揺らぐような心の波に触れて、また一つ日を迎えることができるのではないでしょうか。
今回は長々とよくわからない論説を読んでいただきありがとうございます。書いて欲しいテーマがあれば稚拙ながら書かしていただくのでよかったらお伝えください。
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