ロジャー・シェリンガムはなぜ上機嫌なのか? 『レイトン・コートの謎』誕生経緯を妄想する

注意・この文章にはバークリー『レイトン・コートの謎』、クリスティー『ゴルフ場殺人事件』、ドイル『アベイ農園』のネタバレが含まれます。

 アントニイ・バークリー『レイトン・コートの謎』は、心の底から楽しい英国本格ミステリである。英国黄金時代の巨匠の一人であるバークリーのその後の傑作群に比肩する、などとは流石に言わないにしても、デビュー作であるということを加味すればクリスティ『スタイルズ荘の怪事件』にも負けてないし、セイヤーズ『誰の死体?』より出来は間違いなく上である(人生でこの本を100回は読んでいる人間の意見なので信じてよいですよ)。



その一 シェリンガムの素 偉大な先輩

 今作の楽しさの最大の要因が、ロジャー・シェリンガムという名キャラクター(名探偵ではない)の発明であることに異論はないだろう。陽気でおしゃべりで好奇心旺盛。思ったことは何でも口にせずにはいられず、自信満々で事件に突撃する。そんな彼のことを作者本人、そして様々な識者が指摘している通り、彼はそれ以前の名探偵とは異なるとよく称される。というかはっきり指摘すると「シャーロック・ホームズ」と真逆の存在として描かれている、と解説されることが多い。

…ほんとにそうだろうか?

 シャーロック・ホームズというキャラクターは、名探偵のアイコンでもあり、21世紀の僕らにとっては歴史上の人物とか、神様の一柱みたいなものだが、『レイトン・コートの謎』が書かれた1925年というのは、まだギリギリコナン・ドイルが現役でホームズの新作を発表していた頃である。

 シェリンガムからは確かにホームズの「名探偵性」は感じられないし、何よりそこはバークリー自身が真っ先に排除したところだろう。しかし、それ以外の部分はどうだろうか?ホームズといえば冷静沈着で冷徹な推理マシーン、という風潮があるのかも知れないが、そういったキャラで「売っていた」のは『冒険』『四つのサイン』などの初期ホームズであり、『帰還』『最後の挨拶』『恐怖の谷』に登場するホームズはむしろおしゃべりで陽気で、ユーモアもあり相棒のワトスンを唐突な推理でからかったりする中年紳士なのである。そして1893年生まれのバークリーにとって、最も慣れ親しんだホームズ像とは、少年時代リアルタイムで読んだ『帰還』以降のホームズであったことだろう。

 ホームズのパスティーシュを書くほどのホームジアンであったバークリーが、自分でミステリを書くにあたってホームズを全く意識しなかったとは思えず、むしろ「カッコよくないホームズ」をまず念頭に置いてキャラを作り上げたのではないかという妄想が一つである。(そう考えればラストのシェリンガムがアレックに対して言う提案もまさにホームズ物短編のラストである)

その二 アレックの素 クリスティとの相似

 ミステリマニアが今作を読むと即座に感づくのは、ミルン『赤い館の秘密』と似ている事だろう。『赤い館の秘密』も今作同様楽しいミステリだが、その楽しさの最大の要因は、主人公ギリンガムよりむしろ相棒のビルの存在である。主人公ギリンガムが名探偵を気取るなら僕は助手のワトスンをやろうと自分から言い出して物語を引っ掻き回すビルの先駆性は、1922年というのが信じられないほどで、この圧倒的なユーモアがバークリーを大いに刺激したことは想像に難くない。

 しかし、本作を読めば分かるが、アレックの造形は赤い館のそれとはだいぶ違う。ビルの持っていたメタ要素をほぼ無くしてしまったのが大きな要因だが、それより『レイトン・コートの謎』に大きな影響を与えたと思われる作品がもう一つあるからである。

 他でもないアガサ・クリスティー『ゴルフ場殺人事件』である。レイトン・コートより2年前に発表されたこの作品は、クリスティの長編二作目だがあまり語られる事はない。あまり出来が良くない(あくまでクリスティ基準では、だが)というのもあるが、次の『アクロイド殺し』のインパクトに持っていかれてしまっている方が大きい。だが『ゴルフ場殺人事件』にはレイトン・コートに影響を及ぼしたと思しき点がある。つまり、「ワトスン役が犯人側になったら」という部分への踏み込みである。『ゴルフ場〜』では未遂に終わった要素だが、レイトン・コートにおけるアレックの立ち位置は、赤い館のビルよりもむしろヘイスティングス大尉に近いと言うべきだろう。

 バークリーが他のミステリ作家を意識していたというのは真田啓介氏他多数の識者の指摘するところだが、アガサ・クリスティーがそのなかでも非常に大きな存在(しかもバークリーには珍しくポジティブな意味で)だったのは、バークリーの某作品を読めば間違いない。

 クリスティー側でも人間性はさておきバークリーの作品に対して最大限のリスペクトを込めていたのは、彼女の晩年の傑作『終わりなき夜に生まれつく』を読めば明らかである。余談ながら『終わりなき夜〜』を書評家フランシス・アイルズが高く評価していたというエピソードは、英国黄金時代のエピローグとして最高の場面ではないだろうか。

その三 名探偵の通過儀礼

 『レイトン・コートの謎』はデビュー作であり、この後続けるかどうかというのは考えて無かったかもしれない。なので、主人公シェリンガムにはミステリの探偵として経験出来るだけのことは全部させてやろう、というバークリーの親心(?)が感じられる。

 その中でも最大の部分が「殺人犯を見逃す」事だろう。本家ホームズも何回もやっている事で、『アベイ農園』が一番終盤の空気に近いだろうか。もっとも被害者のイメージは『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』そのものであり、「同情できない被害者」というキーワードは伝統的に受け継がれていたのだ。

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