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アレルギーのはなし

BBSGで進んだ箇所や、議論から得られた洞察を月一回でまとめてく予定です。



身体の渇望を最初に認める必要性

BBSGでは、現在ビッグブック第3章「さらにアルコホリズムについて」の箇所を扱っています。そこで次のような議論がなされました。

「ステップ1を学ぶ上で過程でまず、身体の渇望を知り、その上で精神の強迫観念について知るようになっているのはなぜか」
「その順番にはなんらかの意図があるのか」
この問いについて考えていきます。

医師の意見でも身体の渇望を認める重要性がはじめに示されています。

アルコールがアルコホーリクの身体に引き起こすのは、アレルギーの一種であること、アルコールを渇望する現象はかぎられた人にしか起こらず、ふつうのアルコール好きには見られないことを、数年前に私たちは指摘した。このアレルギーを持つ人間は、どんなかたちでもアルコールを二度と安全には体に入れられない。またいったん破滅にいたるような飲み方が癖になって、どうにもならなくなると、自信も、人間生活への信頼も失ってしまう。問題は暗礁に乗り上げ、解決することは困難になる。

AA(2003) : xxxv

安全には飲めないという医学的な事実

アレルギーという言葉は現在では免疫系の異常な反応(花粉、ハウスダスト、卵や海老等の食べ物によって引き起こされる一般的でない反応)として知られています。ここではアレルギーの定義が、アルコホリズムにどのように適用されているかをみていきます。

私たちがアルコールに対して肉体的にアレルギーを持っているのだという、この博士の理論は実に興味深い。もちろん、その理論が信じられるかどうか、しろうとの私たちが意見を述べても、対して重要性はないだろう。だがかつての問題飲酒者には、この博士の説明は実にしっくりくる。それ以外では説明のしようがない多くのことが、この理論で説明されるからだ。

AA(2003) : xxxiii 

それ以外では説明のしようがない多くのこと、とは何を指しているのでしょう。

アルコホーリクが何かの問題とかビジネス上の取引に何ヶ月も取り組んできて、ある日とうとうそれがうまく解決できるような見通しがたったとしよう。彼は、その大切な日を前に一杯飲んでしまい、するといっぺんにアルコールへの渇望が他の何よりも強くなって、結局その大切な約束の日に身動きができなくなったという例を、私は数多くみてきた。彼らは逃避するために飲んだのではなく、自分の精神ではコントロールできない渇望に屈して飲んだのである。

AA(2003) : xxxvii 

このようにビックブックでは、身体の渇望をアレルギーという例えを通して伝えてきます。言い換えると、体質的に安全にアルコールを(かつては安全に飲めていた時期があっても、少なくとも今は)身体に入れられなくなっている、という事実をまずぶつけてきます。

僕はこの「身体の病気」でもあるという概念に得心できなくて、スタディミーティングで質問をした事があります。
すると講師役のメンバーから「渇望は脳の中の報酬系と言われる部分で起きている、というのが現在のところの有力説です。それはともかく、脳も人体の中の重要な臓器のひとつですね。そう考えれば身体の病気という概念が理解できませんか?」と言われて答えに困ったのを覚えています。

今振り返ると、それは理解できないということもあったけど本当は心のどこかで理解したくない、そんな本音があった事を白状します。
だって安全に飲めないことがわかってしまえば、受け入れるしかない。
つまり酒を諦めなくてはならなくなるからです。

自分で診断を下す

さて第3章ではアルコホーリクがどうか自分で診断を下すようにせまってきます。そのための最初のテストが、飲んだ後に渇望がおきるかどうかでした。

私たちはあなたがアルコホーリクだと宣言したいわけではない、だがあなたは自分で簡単に診断が下せる。これから近くのバーに行って、節酒を試してみる。何杯か飲んだら、きっぱりやめる。いっぺんではなく何度か繰り返ししてみる。もしあなたが自分に正直なら、結論が出るまでにそう長くはかからないはずである。自分の状態をはっきりとつかむ役に立つのだから、あなたが経験する不安やいらいらには値打ちがあると言える。

AA(2003) : 47

自分がアルコホーリクかどうか疑っている人には、実際に飲んでみて実験するように言っています。もし安全に飲めないのだとしたら、あなたはアルコホーリクではないのですか、と問いかけています。

今までのやり方を手放す

最初の問いに戻ります。では、なぜ最初に身体面の事をぶつけてくるのでしょうか。ジョー・マキューは今までの考えを捨てる効果について、こう記しています。

人は、これまでのやり方ではうまくいかないと気づいてこそ、そのやり方を手放すことができる。そうすると意欲が生まれていくる。突然、ほかのあらゆる可能性が目の前に開かれてくるのだ。
スポンシーは、最後の数年間、どうやって飲むかということに全力を費やしてきたはずだ。「どうすれば飲めるか?」その方法を見つけ出すのは、たいへんな労力と自己欺瞞が必要になる。 中略
「どうすれば飲めるのか?」という模索を終わりにすれば、問題は簡単なものになる。「どうすれば飲まないでいられるか?」である。

ジョー(2007) : 47

ジョーは、今までの考え(どうやってうまく飲むか)を捨てることで心は
(どうすれば飲まずにいられるかへ)新しい段階に進むと述べています。
当座は、これが最初の問いの答えとなるでしょう。

絶望への道のり

自分が安全に飲めない事を納得しても、自力で酒をやめ続けることはできないのがアルコホリズムです。安全に飲めない、でもやめ続けることはできない。つまり、自力ではアルコホリズムは解決できない。
はじめの問いの結論は、最初に身体の問題を取り上げ、次に精神の問題を取り上げることでこの病気の絶望的な状況に直面してもらう。そのための案内の順序として、身体の問題をはじめに取り上げるということです。

アルコホリズムにおける絶望とは何かという問いに対する答えとしては、十分な説明になっていないので今後も引き続き考えていきます。

次回は精神の強迫観念について取り上げる予定です。

参考文献

AA(2003) 『アルコホーリクス・アノニマス』AA日本出版局訳 ,AA日本ゼネラルサービスオフィス
ジョー・McQ (2007)『ビッグブックのスポンサーシップ』 依存症からの回復研究会

                


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