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第4章のまとめ

こんにちは、朝晩寒くなりましたがいかがお過ごしでしょうか?
先日、知人から柿を頂きました。妻は柿をサラダに入れるのが好きですが僕はどうも苦手です(笑)。時間が経つのは早いもので、もう晩秋ですね。

BBSGではビッグブックの4章を読み、ディスカッションをしながら進めてきました。先日のミーティングで4章が終わり5章に入りました。今回は4章の最後のパートを取り上げます。



ミーティングを進めながら気がついたこと

ビッグブックを読む時に求められるのは、全体として書かれている事を自分の課題として読もうとする姿勢です。

この章は不可知論者の為に書かれた章ですので「不可知論者か、ふ〜んそんな人もいるのね」「なんだか小難しい事が書いてあるけど、まあ自分には関係ないや」なんて読み方ではなく、自分に当てはまる所はないかを自ら問いかけながら読むことが必要です。

これは自分の事を言っているのだと思えたらテキストを読めている
(少なくとも読み始めている)と考えてください。

この章は新しくAAに来た人にとって、難解でわかりにくい面も多いかと思います。テキストを読む時に、全体の流れとテキストのまとまりをパートごとに読めるよう図にしました。

パートにわけて読むことで、全体として筆者が何を伝えたかったのかがわかりやすくなります。太字で書かれている所は著者が私たちに具体的に問いかけ、正直に考える手助けをしてくれます。

ミーティングでの議論と心の家路『ビッグブックのスタディ』を参照し作図

理性に頼って信仰の対岸に渡れない理由

私たちは今まで受けてきた教育の中で知識を吸収し、論理的に考える能力を高めることで社会の中で生きる力を得てきました。

例えるならスマホやインターネット、SNS等新しい技術やサービスが出て来るたびにその使い方を知り、習熟することで今までできなかったことが可能になる経験を積み重ねてきました。

しかし信仰の世界は、物質社会とは違う原理が働いているといいます。
それは今までのやり方や、それを支えている信念を捨てること意味します。
ではなぜ理性、つまり自分の考えを手放すことができないのでしょうか。

理性だけに頼って長いこと何とかして持ちこたえてきた私たちは、その頼みの綱を失いたくなかった。

AA(2003) : 78

理性を信仰の対象にしている私たちは、その頼みの綱を手放さない限り神への信仰は得られないということです。

私たちを越えた存在は、私たちの知性を遥かに超えているわけですから頭でいくら考えをこねくり回しても、いくら知識を詰め込んでも霊的体験は与えられません。

必要なのは自己放棄であり、今までの人生で得た知識や信念を役に立たなかったと否定して捨てることなのです。

酒を飲まないための正直な祈りというのは、こうなんだ。「神さま、ここにいる私は問題をいっぱい抱えています。私は何もかも滅茶苦茶にして、どうにもならなくなりました。何もかも、おまかせします。どうぞ、私の困難を取り除いてください。私をあなたのお望みのままにしてください」

AA(2016) : 23

4章の最後に出てくるフィッツ・Mは霊的体験をする前に入院中の仲間から聞いたこの言葉を聞き、自分の持っていた信念に直面してこのように祈り
自己放棄をした結果、霊的体験が与えられました。

信仰の対象を変える

頼みの綱である理性への信仰を捨てることは、何も信じないことではありません。信じることをやめるのではなくて信じる対象を変えるのです。

ミーティングで、79ページの3行目からは、「話が飛躍して混乱する」という意見をいただきました。要は人間の領域である、愛、感情、金銭、品物、そして自分自身を信じる事をやめて、神のアイディアを信じる方に向きを変える事を言っています。

私たちは何かを信じずには生きられない存在なのです。
言い換えると、生きることは信じることそのものと言えるでしょう。

なんの信仰もない人生が想像できるだろうか。純粋な理性しか持たずに生きることは人生と言えるだろうか。私たちは人生があることを信じた。そう、信じたのだ。

AA(2003) : 78
ミーティングでの議論を元に作図

ステップ2ですること

ではステップ2では具体的に何をしなければいけないのでしょう。

ここまで書いてきたことが、あなたが偏見を取り除き、心の奥底を正直に努力して探ろうとする手助けになればうれしい。

AA(2003) : 81

まとめると次のようになります。
1. 偏見を取り除く。
2. 正直に考える。
3. 心の奥底を努力して探ろうとする。

この3つを私たちができるように4章全体を使い、説明をしながら「あなたはどちらを選びますか」と問いかけてきた事がわかります。
それができれば回復の王道を行く彼らと一緒に歩くことができるとあります。 

霊的体験

先述した通り、4章の最後にはフィッツ・Mの霊的体験が書かれています。彼の物語「南部の友」には霊的体験後も襲ってくる「飲んでやろうか」という思いや家族の問題、感情の爆発、経済的困難など決して平穏なAAライフではなく、再発の危機ををすんでのところで切り抜けてきた様子が書かれています。

あるメンバーが「霊的体験とは神さまの部屋をノックしてドアが開いて姿が少し見えたにすぎない、はじめましてと挨拶をして、それから椅子に座り話をしながら関係が育つようなもの」と教えてくれました。

霊的体験は飲まない生き方の始まりであって、ゴールではない事を忘れる時
私たちは最初の一杯に簡単に戻っていくのでしょう。

鉄橋の下でのひらめき

最後に現代に生きるAAメンバーの経験を紹介します。
ミック・Sというオーストラリア人の体験で、書籍の中で彼はその体験を
「鉄橋の下でのひらめき」と呼んでいます。

アルコホリズムの進行にともない目指す職業を諦めるしかないと結論し
お金がも無く、ヒッチハイクでワシントンに向かい旅をしていたところ
ハリケーンによる大雨に見舞われ、人里離れた鉄橋の下に一晩野宿しながら思索を深めていった様子が書かれています。

暇を潰している間に、これまで自分が教わってきたキリスト教について考え始めた。それまでに、キリスト教は実に排他的で、独善的な宗教だと考えるようになっていた。

また以前から、神は人間が掟をきちんと守らなければ永遠の罰を与えるような怖い存在だと教えられてもいたので、キリスト教に対して強い違和感を感じていた。(中略)

しかし、試すつもりでないなら、なぜ神は掟を作ったのだろうか。
この問いへの回答は、当時の私にとって難しいことではなかった。25歳だった私は、それまでひたすら「自分自身の思い」だけに従ってベストを尽くして生きていた。しかし、人生はどうにもならなくなっていた。

もし神の愛が存在し、人間に掟を与えているのであれば、それは人間を真の幸福へと導くためにあるはずで、死後の世界や地獄が目的であるはずがない。この世での、人間にとっての一番良い生き方を示すもの、それこそが掟であるはずだ、そう思った。

掟、あるいはキリスト教が教える誠実さと愛の生き方は、人間を試すものではなく、幸福へと導くものだと考えるならば、それへの思いはまったく変わってくる、そのような思いが自分の中に芽生えた。

ミック・S (2018): 106

彼はこの体験の後、AAに参加し現在まで飲まない生き方を実践しています。今までとは全く違う思いが、一晩のうちに彼の心に芽生えたことは霊的体験といえるでしょう。

その経験が彼の人生の転機となった事は、その後の生き方が変わったことからもわかります。

霊的な事柄に対して先入観や偏見のある人でも「偏見を取り除き、心の奥底を正直に努力して探ろうとすれば」それを乗り越えうる事ができる実例ではないでしょうか。

私たちが神に近づこうと努める時、神は必ず私たちの前に現れる。

AA(2003) : 83

次回は第5章に入る予定です。

参考文献

AA(2003) 『アルコホーリクス・アノニマス』AA日本出版局訳 ,AA日本ゼネラルサービスオフィス
AA(2016) 『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol. 4』AA日本出版局訳 ,AA日本ゼネラルサービスオフィス
ミック・S (2018) 『アルコール依存症に負けずに生きる』ナカニシヤ出版