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岩佐純巨先生に学ぶ 意味ある高大接続のために必要なこと

討論論文:意味ある高大接続のために必要なこと†
岩佐純巨*
高田中学校・高等学校*
1)
キーワード:アクティブ・ラーニング,深い学び,探究,総合知,“ことば”の共通理解,高大接続

  1. はじめに
    このシンポジウムの目的にも関係すると思われるので,
    まず,「質疑の時間 2)」に出された 2 つの質問に対する見
    解を述べておく.
    1 つは,「質疑の時間」における長濱の発言「高校まで
    で基本的な汎用的学習スキルを身につけていれば……」
    に対して,小学校教員から以下のような質問が出された.
    「大学の先生が『高校のときに』と言うと,高校の先
    生は『中学校のときに』,中学校の先生は『小学校のとき
    に』と,責任を順送りに初期教育に転嫁しているニュア
    ンスを感じる.今回の改革は,小中高大が同時スタート
    として一斉にやることに意味があると思う.」
    「○○までに〇〇という力を付けて欲しい」という発
    言はよく耳にし,生産性のない責任転嫁の発言であるこ
    ともしばしばある.しかし,このシンポジウムは「高大
    接続を考える場」であり,長濱の発言の意図は,「接続の
    一つの方法として,『年齢的な能力やそれまでの学修歴に
    関する考察』を共有し,その上で,『高校ではこの部分な
    ら指導ができるが,この部分になると大学に委ねなけれ
    ばいけない』などの共通理解と指導法の検討が必要であ
    り,それによって,より効果的な接続につながる」とい
    う意味であり,冒頭の中西の趣旨説明における問題提起
    「それぞれの年齢段階でどのような力を身につけていて,
    どのような力を身につけることが期待されるのか」に対
    する一つの回答であると理解できる.この年齢的な考察
    は,意味のある高大接続を考えるときに重要であり,今
    後更に議論を深めていく必要がある.
    2 つ目は,「なぜ地域課題なのか?」という質問につい
    て,これもしっかりと議論すべき問題である.大学の理
    由は長濱の回答のように,地方国立大学にとっては必然
    の選択だろうと理解しているので,高校の立場での考え
    方を述べることにする.
    今現在,(探究学習に)積極的に取り組んでいる学校の
    多くは「地域課題」である.地域課題に踏み出せないと
    ころは,色々と考えたあげく「SDGs」である.来年度ふ
    たを開けたら,全国の高校のすべてが,この 2 つのどち
    らかに取り組んでいるのではないかとさえ予想できる.
    「なぜか?」については,「質疑の時間」における林の
    見解「身近でないとなかなか作業が成り立っていかない,
    深められない」の通りだと考える.「調べ学習から脱出」
    し,「自分事としての問題意識」を持って取り組むために
    は「経験が生かされる身近なものであること」,「取っ付
    きやすいこと」が大切である(中西の趣旨説明における
    「探究的な学習のプロセス」の“探究への意欲を高める段
    階”).
    したがって「地域課題からテーマを考える」ことに反
    対ではないが,「取っ付きやすさ」だけを理由に取り組む
    と,一時のキャリア教育,週1 回の単位つぶしになって
    しまい,本来の目的を忘れてしまう恐れがある.「なぜ地
    域課題か?」ではなく,そもそもの「なぜ探究なのか?」
    というところをもう一度各学校でしっかりと考えた上で,
    その目的達成のために「地域課題からテーマを探す」と
    いう,原点を忘れない取組が求められる.

  2. なぜ探究なのかについての見解(私見)
    「総合的な学習の時間」の失敗を,今度は「学習」を
    「探究」という言葉に換えてもう一度何とかしたい.「総
    合的な学習の時間」ということばが使われ始めたときに
    は,「“学校知”は死んだ」とまで言われ,教科・科目ごと
    の単発的な知識の習得ではダメである,汎用力につなが
    る「総合知」の育成が求められる.そのためには,教科・
    科目をつなぐ教科横断型の指導が必要だ,ということで
    ある.ところが,学校現場の受け止め方は「教科・科目
    の枠を超えた指導」,「汎用力につながる指導」というこ
    とで,同時に求められていた「キャリア教育」に一斉に
    目を向けたのである.その結果,教科・科目の指導は従
    来通りで「総合的な学習の時間(キャリア教育)」は週に
    1 回の特別活動型になってしまった(林の事例報告「イベ
    ント型のキャリア教育」).そこをもう一度何とかしたい
    という訳で,「主体的,対話的,深い学び(アクティブ・
    ラーニング)」と「カリキュラム・マネジメント」という
    ことばを土台にして,「総合的な探究の時間」と改名した
    のだと考える.つまり,学校における教育活動(教科指
    導,クラブ指導,ホームルーム指導,行事など)を全て
    つなぎ,将来につながる資質・能力を育成せよ,学校に
    おける教育活動をつなぐ核となるのが「総合的な探究の
    時間」であるということである.したがって,キーワー
    -ドは「総合的な」の方にあり,ここで「探究」に焦点を 当ててしまうと前回の失敗の繰り返しになる.個人的に は,「探究」ということばは,「深い学び」の言い換えで あり,安彦忠彦の学習過程のレベル「習得-活用-探究」 の最終段階を意味すると捉えている(安彦忠彦 2016). 3. 探究学習に取り組む上での課題 次に,林の事例報告を踏まえ,高校における「総合的 な探究の時間」に取り組む上での課題を整理しておく. 第一には,カリキュラムの問題である.高校での「総 合的な学習の時間」の失敗は,上で述べたように,週に 1 ~2 回の特別活動型で行おうとしたことにある.特別活動 型でやっている限り,「特別な時間」であり,イベント型 にならざるを得ない.決められた数人の担当者だけが苦 労し,他の教員は従来通りの教科指導をするだけである. 「総合的な探究の時間」は,各教科・科目の「見方・考 え方」をつなぎ「総合知」へ導くためのものである.し たがって,日常的な教科・科目指導をつなぐ場として機 能させる必要があり,そのためにはカリキュラム整備が 求められる. 次の課題は,“教師観・教育観”の問題である.カリキュ ラムが整備されないまま「探究学習」がスタートすると, “運悪く”担当が回って来た先生だけが苦労する.そして, その打開策として,この内容は“自分の専門ではない”とい う理由で他の先生に振る.例えば社会の先生は科学的な ことをやるときには理科や数学の先生に振り,逆に理 科・数学の先生は政治的なこと,社会的なことをやると きには社会の先生に振る,最後にレポートをまとめるの は英語・国語の先生の役割,という風に責任の振り合い っこが起こる(これは,“協働”ではない).学校内の責任 の振り合いっこが上手く回らないと次の手段を考える. それは,SSH なんかの指定校が使う「大学の先生」に依 頼するという手段である.大学の先生が無理なら院生で もいいから送ってくれよ,と依頼する(これは,“外部人 材の活用”ではなく,“イベント型活動”の発想である).三 重県内の総合大学は三重大学だけ.そこに各学校が依頼 をしたら,もう三重大は一発で疲弊してしまう.すでに SSH や高大連携の出前講義の依頼等で,数年前からパン ク状態だと聞いている.これは,高校の先生の,無責任 と言ったら言い過ぎかもしれないが,“自分の専門ではな いから”の発想,つまり「教師観・教育観」の問題である. 「質疑の時間」における下村の見解にもあるように,今 回の教育改革は,その転換も求められているのである.3 つ目は,「探究学習」と「教科・科目(学問)への興 味・関心」とをどのようにつなげていくかという問題で ある.子どもたちにこういう探究学習(課題研究)をさ せるととても楽しそうに取り組む.先日も中学生の課題 研究の発表会を見学してきた.中学校 1・2 年生の課題研 究の発表,中学校 3 年生の課題研究の発表,そこへゲス トで 4 年生(高校 1 年生)の取組の発表,というのを丸 1 日聞いてきた.はっきり言ってお粗末なものだった.け れども,「やろうとする」,まず取り組んでいるというこ とは評価できる.したがって,それを進化(深化)させ て“調べ学習”から脱出させるのは指導者の役割,つまり, 探究学習を計画・実施するときの仕掛けと工夫である. 事例報告者の林からも「課題と方策」が何点か述べられ ているが,私は教科横断型の授業の実現など,「“総合”に 焦点を当てた探究活動」を考える必要があると考えてい る. 4. 意味ある高大接続とは 最後に「接続」についての考えを述べるが,その前に この種の教育議論をするときに使われる“ことば”につい ての留意点を述べておく. 今,教育を語るとき,抽象的なことばや横文字言葉が 頻繁に使われる.「探究」という言葉もそうであるが,「ア クティブ・ラーニング」,「ジェネリックスキル」,「生き る力」……など.例えば,「生きる力の育成」などと聞く と,耳障りはいいし,大抵の人は「それは大切だ」と同 意するに違いない.しかし,「生きる力とは何か?」と問 われると,一人ひとりまったく別の力を考えていること もある.先ほど林が問題提起した「PBL」も然りである. PBL には「プロブレム」と「プロジェクト」の 2 つある. 自分達の取組は「どちら」で,それは「○○を目指して いる」からだ,そういうものを明確にして共通理解の元 でやっているのか疑問が残る(2つの PBL の違いやその 活用法などについては,この後の山田の見解を参考にさ れたい).このように,気を付けなければいけないのは, 「抽象的なことば」を使うとき,聞くとき,その意味・ 概念を明確にし,互いの共通理解のもとで議論すること である.さもないと,「雰囲気だけで具体性のない目標」 に向かっての取組になってしまう. 今回の教育改革の土台となる「アクティブ・ラーニン グ」ということばとその延長線上で使われている「探究」 ということばについては尚更であり,教育の接続を考え る上で最も共通理解を必要とすることばである. 「アクティブ・ラーニング」は,大学ではもうすでに 取り組んでいる.小・中学校はもう大昔からやっている. 高校だけが何もやっていないと,今回の改革の議論の中 で一番駄目だと言われたのが高校である.高校は今, 「小・中学校から上がってきたアクティブ・ラーニング」 と「大学から下りてきたアクティブ・ラーニング」に,「ア クティブ・ラーニング」という同じことばで挟まれてい る.この 2 つの「アクティブ・ラーニング」を区別するドは「総合的な」の方にあり,ここで「探究」に焦点を 当ててしまうと前回の失敗の繰り返しになる.個人的に は,「探究」ということばは,「深い学び」の言い換えで あり,安彦忠彦の学習過程のレベル「習得-活用-探究」 の最終段階を意味すると捉えている(安彦忠彦 2016). 3. 探究学習に取り組む上での課題 次に,林の事例報告を踏まえ,高校における「総合的 な探究の時間」に取り組む上での課題を整理しておく. 第一には,カリキュラムの問題である.高校での「総 合的な学習の時間」の失敗は,上で述べたように,週に 1 ~2 回の特別活動型で行おうとしたことにある.特別活動 型でやっている限り,「特別な時間」であり,イベント型 にならざるを得ない.決められた数人の担当者だけが苦 労し,他の教員は従来通りの教科指導をするだけである. 「総合的な探究の時間」は,各教科・科目の「見方・考 え方」をつなぎ「総合知」へ導くためのものである.し たがって,日常的な教科・科目指導をつなぐ場として機 能させる必要があり,そのためにはカリキュラム整備が 求められる. 次の課題は,“教師観・教育観”の問題である.カリキュ ラムが整備されないまま「探究学習」がスタートすると, “運悪く”担当が回って来た先生だけが苦労する.そして, その打開策として,この内容は“自分の専門ではない”とい う理由で他の先生に振る.例えば社会の先生は科学的な ことをやるときには理科や数学の先生に振り,逆に理 科・数学の先生は政治的なこと,社会的なことをやると きには社会の先生に振る,最後にレポートをまとめるの は英語・国語の先生の役割,という風に責任の振り合い っこが起こる(これは,“協働”ではない).学校内の責任 の振り合いっこが上手く回らないと次の手段を考える. それは,SSH なんかの指定校が使う「大学の先生」に依 頼するという手段である.大学の先生が無理なら院生で もいいから送ってくれよ,と依頼する(これは,“外部人 材の活用”ではなく,“イベント型活動”の発想である).三 重県内の総合大学は三重大学だけ.そこに各学校が依頼 をしたら,もう三重大は一発で疲弊してしまう.すでに SSH や高大連携の出前講義の依頼等で,数年前からパン ク状態だと聞いている.これは,高校の先生の,無責任 と言ったら言い過ぎかもしれないが,“自分の専門ではな いから”の発想,つまり「教師観・教育観」の問題である. 「質疑の時間」における下村の見解にもあるように,今 回の教育改革は,その転換も求められているのである. 3 つ目は,「探究学習」と「教科・科目(学問)への興 味・関心」とをどのようにつなげていくかという問題で ある.子どもたちにこういう探究学習(課題研究)をさ せるととても楽しそうに取り組む.先日も中学生の課題 研究の発表会を見学してきた.中学校 1・2 年生の課題研 究の発表,中学校 3 年生の課題研究の発表,そこへゲス トで 4 年生(高校 1 年生)の取組の発表,というのを丸 1 日聞いてきた.はっきり言ってお粗末なものだった.け れども,「やろうとする」,まず取り組んでいるというこ とは評価できる.したがって,それを進化(深化)させ て“調べ学習”から脱出させるのは指導者の役割,つまり, 探究学習を計画・実施するときの仕掛けと工夫である. 事例報告者の林からも「課題と方策」が何点か述べられ ているが,私は教科横断型の授業の実現など,「“総合”に 焦点を当てた探究活動」を考える必要があると考えてい る. 4. 意味ある高大接続とは 最後に「接続」についての考えを述べるが,その前に この種の教育議論をするときに使われる“ことば”につい ての留意点を述べておく. 今,教育を語るとき,抽象的なことばや横文字言葉が 頻繁に使われる.「探究」という言葉もそうであるが,「ア クティブ・ラーニング」,「ジェネリックスキル」,「生き る力」……など.例えば,「生きる力の育成」などと聞く と,耳障りはいいし,大抵の人は「それは大切だ」と同 意するに違いない.しかし,「生きる力とは何か?」と問 われると,一人ひとりまったく別の力を考えていること もある.先ほど林が問題提起した「PBL」も然りである. PBL には「プロブレム」と「プロジェクト」の 2 つある. 自分達の取組は「どちら」で,それは「○○を目指して いる」からだ,そういうものを明確にして共通理解の元 でやっているのか疑問が残る(2つの PBL の違いやその 活用法などについては,この後の山田の見解を参考にさ れたい).このように,気を付けなければいけないのは, 「抽象的なことば」を使うとき,聞くとき,その意味・ 概念を明確にし,互いの共通理解のもとで議論すること である.さもないと,「雰囲気だけで具体性のない目標」 に向かっての取組になってしまう. 今回の教育改革の土台となる「アクティブ・ラーニン グ」ということばとその延長線上で使われている「探究」 ということばについては尚更であり,教育の接続を考え る上で最も共通理解を必要とすることばである. 「アクティブ・ラーニング」は,大学ではもうすでに 取り組んでいる.小・中学校はもう大昔からやっている. 高校だけが何もやっていないと,今回の改革の議論の中 で一番駄目だと言われたのが高校である.高校は今, 「小・中学校から上がってきたアクティブ・ラーニング」 と「大学から下りてきたアクティブ・ラーニング」に,「ア クティブ・ラーニング」という同じことばで挟まれてい る.この 2 つの「アクティブ・ラーニング」を区別する

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