「赦すこと」と「ゆるせないこと」:聖マーティン教会の神学グループ

午前の礼拝が終わった後、正午から1時間、サム・ウェルズ牧師を中心に、表題のテーマを考える集会が行われた。それほど大きくない部屋に、おそらく3、40人近くが集まった。部屋のイスでは足りず、あとから来た人、あるいは若めの人は自ら進んで地べたに座り込んで、部屋いっぱいになる盛況。

最近では私も「サム節」に慣れてきた。それは、話の筋を秩序だてて組み立てる話法。ちょっと論文の構成みたいでもある。今日の話もそういうように始まった。ノートもとらなかったので、ざっくり記憶を起こした話の要旨と、私が理解したところがごた混ぜな形になるけれども、以下に記す。「赦す」という場合、一般的というか世俗的な「赦す」レベルがあるが、赦すことによって、その人自身にもたらされる心理的にプラグマティックな効果が期待できる。赦せないというのは、相手にとらわれている段階だからね、赦せない本人もずっとその辛さを抱え続けなけれならない。赦すというのは、その苦しみから解放されることでもある。この効果は捨て難い。

一方で、赦せないという思いに執着する方が辛いのだからそれは捨てましょうといわれても、それはどだい無理な話だ、というのが普通であろう。確かに「黒い感情、執着をきれいさっぱりと捨てたぞ」としばらくそれを忘れることはできるかもしれないが、「赦せない」感情はふとしたきっかけで容易ににむくむくと湧き上がる。そういう自分の「至らなさ」にもまた、打ちのめされることになる。

キリスト教的なコンテクストでの「赦す」という段階がある。それはキリストの死と復活を信じることである。この話は、サムはさらっとしか触れなかったと思うので私なりに補足すれば、キリストの死と復活によって私たちの罪が贖われるという贖罪論的なコンテクストでの意味だと思う。すごく簡単にいえば、私たちが抱える「赦せない」という黒い感情、罪は、私たち自身でどうにか処理しなくてもよいのだ。死と復活を信じるということは、父と子キリストにそれらを丸投げしてしまえるということだから。

実際、サムはマタイ福音書の「敵を愛せよ」にも言及し、「ここでも『敵を赦せ』とは言っていない」と。本当にそのとおりで、私にとっての「敵」は、いずれにせよ父なる神によって赦され愛されるので、私としてはせいぜい「神さま、ソイツにもあなたの恩恵を与えてやってくださいね」と、その敵のために祈り慈しめばよいというのが聖書の要求だ。

もう一つの「赦し」のレベルとして、個人的な赦しと、もう少し大きな集団の赦し、という問題がある。後者は、たとえば今起きているハマスとイスラエルの紛争がいい例である。しかしここに踏み込むと話がややこしくなるので、そんなに深くまで立ち入れなかったようです。

教会の後は、レスタースクエアのクリスマスマーケットにより道をしつつセント・ジェイムズ・パークを散策して帰ろう、と思っていたが見事に目論見は外れた。今日は、ユダヤ人擁護する大規模なデモが中心部で行われるため、中心部は警官の数がすごく、公園に続く道も規制されて迂回しているうちに、元のトラファルガー広場に戻ってしまった。気温も1、2度で小雨の降る中、お腹も空いたことだし今日は早めに帰宅してゆっくり自炊しようと。

レスタースクエアのクリスマスマーケットでの収穫がこちらの、ペルー人のお兄さんが売っていた「アルパカの」(本当?)手袋。

クリスマス・マーケットといえばロマンチックですが、多くは外国からきた「出稼ぎ」風な人も多いです。それは日本でもそうですよね!

指先が空いているの、急遽探していたのだ。家でも図書館でも、じっと座っている者の指先にまで優しい温度には、決して設定してくれないロンドン。数時間後には手先が本当に冷たくなってしまうのに困っていたので。本当は白色のが気に入ったのだけど、よく見ると親指の付け根の部分がほぼ崩壊状態😆 こういうのも売っちゃうんだ😄 お兄さんに確かめても「うん、これは破れてるね」と。なのでセカンドオプションでこれを10ポンドで購入。一番安いのだったから、すぐだめになっちゃうかも、だけど。

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