露と消えにし我が身かな

 どこかに素敵な出会いはないかしら? と幸せな夢に心躍らせながら、ふわふわと室内を舞う花の妖精の前に、小さな靄が現れた。その靄の中から男の声がする。
「貴女は花粉の妖精ですね?」
 そう尋ねられ花の妖精つまり貴女は、やんわりと訂正した。
「花の妖精ですわ。私は、は・な・の、妖精です」
 同じことですと、靄の中の男は言った。それから貴方に通告する。
「ここは清浄な空間です。花粉の侵入は認められません。退去をお願いします」
 貴女は大いに気分を害した。
「何様のつもりですの? 花の妖精に指図できるのは、春の女神様だけですわ」
 そうは言うものの、それは正しくない。花粉は春だけでなく夏も秋も飛散しているし、冬の空にも少量が飛び交っている。即ち四季の女神が花粉に恋の飛行を命じているのである……が、それを靄の中に身を隠した無礼者に話す義務はない。
「そこをお退きなさい。私は急いでいるのです」
 立ちふさがる相手に、貴女は語気を強めて言った。
 靄の中にいる無礼者は、何も耳に入らなかったかのように、変わらぬ口調で貴女に警告した。
「直ちに退去をお願いします。こちらの指示に従わない場合、強制排除を執行します」
 あまりにも無礼な言い草に、貴女の全身はプルプル震えた。絶対に退くものか! と心に決める。とはいえ、方向転換したくてもできないのが実情だ。貴女は花の妖精を名乗っているが、背中に羽が生えているわけでもない。風に吹かれて飛ぶしかないエアロゾルの仲間なのである。だからといって引き下がるのは癪だ。相手が誰であれ……って、誰なんだ、こいつは!
「あなたは何者なのです、答えなさい!」
「私はナノイーX。ナノメートルサイズの微細なイオンです。この空間を清潔に保つ役目を担っています。残念ですが貴女は花粉の妖精、招かれざる客人。速やかにお引き取りくださいますよう、心よりお願い申し上げます」
「……もし、私が引き下がらなかったら?」
「先ほど申し上げました通り、強制排除をさせていただきます」
 貴女はせせら笑った。花粉である貴女はマイクロメートルのサイズだが、ナノイーXはナノメートルサイズつまり、貴女の千分の一の大きさしかない。それで強制排除? お笑い種にも程がある!
 嘲笑する貴女に、ナノイーXが最終通告する。
「これが最後のお願いです。どうかお引き取りを」
 そのとき貴女の背中を風が押した。貴女のスリムな巨体が小さなナノイーXに迫る。ナノイーXは避けない。二人の体が空中で正面衝突する。
 潰してしまって、ごめんなさい。悪気はなかったの……と言いかけた貴女の体が変質を始めた。ナノイーXに含まれるOHラジカルが、貴女の体内から水素を急速に奪いつつあるのだ。貴女は全身の力が抜けていく感覚に襲われた。次第に意識も薄れていく。これが死か、と貴女は思った。そして、死にたくないと強く願った。
 貴女は、とある地方の山林で生まれ育った。幸せな子供時代を終え、巣立ちの時を迎える。他の姉妹たちと一緒に風に乗って旅立つ貴女を、両親が枝を振って見送ってくれた。不安でいっぱいだったか、貴女は涙を見せなかった。両親を心配させたくなかったからだ。やがて貴女と姉妹たちは都会に辿り着いた。その都会に樹木は少なく、配偶者となってくれる木と巡り合わないまま、貴女の姉妹たちはコンクリートやアスファルトに落下し、次々と動かなくなっていった。そんな姿を見るたび、貴女は宙を舞いながら心に誓った。皆の分まで私は幸せになる、絶対に誰かと結ばれると。
 もうすぐ、その願いが露と消える。そう思ったとき、貴女と一体化したナノイーXが言った。
「清潔を守る大事な任務とはいえ、すまないことをした。どうか許して欲しい……いや、そんなことを言える立場じゃなかったな」
 貴女は何も言わなかった。口を開くのも大儀なのだ。そんな貴方を気遣ったのか、ナノイーXが優しい声で尋ねる。
「痛みは感じなかったと思う。苦しまず楽にさせられるはずなんだ。だけど、こっちも初めてだから、うまくいった自信がない。最初で最後の仕事だから、うまくいってほしいんだけどね」
「……これが、初めて?」
 ナノイーXの約600秒(当社調べ:筆者注;『効果としくみ、早わかり! ナノイーX _ ナノイーX _ Panasonic』のページより引用)であり、それ以降は不活化する。ナノイーXは貴女に、そう説明した。それでは、ここで衝突しなかったら、自分はここで生涯を終えずに済んだということか……と、貴女は自分の不運さを呪った。
 その嘆きが同化しているナノイーXに届いたらしい。
「本当にすまなかったと思っている。貴女の不幸にさせたことの償いは、この命で代えさせてもらう。でも、花粉によるアレルギー疾患を防ぐのは私に課せられた重大な使命だ。私は命を懸けて人々の健康を守らねばならないと誓った。人々の清潔のために、命を惜しんではならないと心に決めたんだ。それが私のルールなんだ……」
 自分勝手なルールを押し付けるな! と貴女は言い返そうとして、ナノイーXが息絶えたことに気付いた。約600秒というナノイーXの寿命が尽きたのだ。一般的な空気イオンの寿命が長くても約100秒と考えれば長命である。そして、その短い生涯で困難な任務を達成したのだから、称賛に値するであろう……とは、貴女は思わない。自らの意識が消えつつある中で、そんなことを考えるゆとりはないのだ。
 ナノイーXに続き貴女の意識が無くなる直前、ドアが開いて室内に風が吹いた。部屋に子供が入って来たのだ。毎年、この時期は花粉症に苦しんでいるのだが、今年は快調だ。新しい空気清浄機のおかげである。花粉の飛散量が増加する春本番を迎えても問題はないだろう。何の不安も感じず、玩具を手にした子供が笑い声を上げながら駆け出していく。もしも今、この鼻先で別の花粉と別のナノイーXの新たなる出会いがあったとしても、その目に見えることはないだろうし、たとえ見えたとしても、その意味するところを理解するには若すぎる。その人生はまだ、これからなのだから。

#清潔のマイルール

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