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エリクソンの発達課題と精神の深化でいうところの精神医学との、この二つの整合性を探している.

エリクソンの発達課題(佐々木正美先生)と、精神の深化(泉谷閑示先生)の二つの整合性を探している。

簡単に言えばエリクソンの発達課題は「親に愛があることによって子どもが健全に育つ」と言い、

精神医学(泉谷閑示先生が話す心の構造の意味)は、「親や世界の不条理を目の当たりにすることで人としての真の成長が始まる」と言う、

ここの二つの整合性が分からず、

ここが分からないからこそ私の鬱は長引いている、とも言うことが出来る。

愛を受けて育つと言う論と愛を失って育つと言う論のこの二つが相反しているように認識される。

ここで浮かび上がる一つのテーマとしては、

「愛を受けた人間でも、人生の不条理を感じることはあるのか」ということであり、

ここが「そうだ」と認められたのならば、

私はずっと社会不適合者として生きていたけど、本当は一番社会を真っ当に感受して生きてきた人間だった、ということに生まれ変わる。

結果には原因がある、と仏教では聞くが、

それがまさか精神の深化というものを包含したものである.とは思ってもいなかった。

それに、仏教自体が機械的に人の欲情を押さえつけるばかりで、情緒的な心の発達を優しさと共に発育していく、という姿勢が無いように見えるとこも疑問だ。

もし精神の深化ということが人間のテーマとしてあるのなら、必然的に説かれる仏教は心理的なテーマを網羅したことであり、

それは現代的に言えば"根性論から程遠いところのもの"のところに位置するような気がする。

"根性論から程遠いところのもの"を求めているのが現代である、という気がするから、

仏教を説くということは心理学を説くということであるとも言える気がする。

あるいは深部の仏教も大事だが、
表層の心理学が網羅されていない形で教えが説かれれば、

それはある意味で破滅的な結果を生む、

というようなことができる気がする。というより、その例を私は何度も見てきた。

一貫して私が求めているのは、
エリクソンと精神医学の整合性であり、

精神医学を包含する仏教の微細性である。

おそらくこれを網羅された方がお釈迦様である。

もしこの機能が現代の仏教界に欠けているのだとしたら、

私は仏教と心理学という本来なら支え合うはずのこの二つの機能を、統合させる役目を果たしたいと思う。

これはやりたいからというよりも、やらざるを得なかったから、である。

ここが分かれば、私の鬱は治る。
あるいは鬱が治れば、ここが分かる、と言えるか。

私は変わらず、この冬休みをぐうたらしたい。

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