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脳の圧感が高まる.

私は体調不良が襲うとき、それを総じて脳の圧感(あつかん)が高まる、という表現をしています。

圧感とは、元は外に向けて矢印を発していた発散エネルギー(世間で言われる努力と言えるものに相当します)が、不運にもさまざまな環境と辛い出来事によって矢印が内に向いてしまって、それまでの努力エネルギーが自分を責めるエネルギーに転化してしまう現象、と捉えます。

これは私の単なるイメージと観察からくる言葉ですが、おおむねこのようなメカニズムで私の体調不良は襲います。

すると何もできなくなり、"何かを見て"も、それが全て自分を責める材料になってしまいます。

この状態そのものを、脳の圧感(のうのあつかん)が高まった状態、と言っています。

私の場合は長い休暇があるとそれらは落ち着くのですが、しかし時には一週間単位でそれらが続くこともしばしばあります。

総じて脳の圧感が高まっている背景には、そこに並々ならぬ努力があった、ことは確実です。

本当に確実です。

だから脳の圧感が高まった人は、総じて努力をした、ということは100%言えます。

彼ら彼女らは、人一倍努力したのです。

私は文学的に脳の圧感を表現してみたこともあります。

それはこのようになります。

"不遇と苦難の総和としての圧感"です。

不遇とは人の悪意に触れ、そして自責を高める一連の流れを言い、

苦難はそれら諸々の苦しみを言います。

人の悪意と、自分の無力さを見せつけられる環境のミスマッチがあったこと、

これを"不遇(ふぐう)"と名付けました。

そしてそれらからくる諸々の苦しみを、

"苦難(くなん)"と名付けました。

この不遇と苦難を全身に浴びた総和として、脳の圧感が高まっている、と表現しています。

私は心理学者でも精神科医でもないので(そこを目指してはいますが)、

自らの造語で自分の病理を理解します。

その中でキーワードとなってきたのが脳の圧感(のうのあつかん)であり、

それらに至る道程は、

不遇(ふぐう)と苦難(くなん)の総和として、と表現しました。

つまり結局のところ一言でまとめるならば、

その本人がとんでもない努力をしたのです。

この一言に全て収まると思います。

そしてそれは客観的な話ではありません。

客観はすべて相対的なので、今自分は鬱だけど社会で望まれる結果は出してないし、と言われるかもしれませんが、

脳の圧感と不遇と苦難はすべて主観です。

そこに相対の評価はありません。

自分が辛い、なら自分が辛いのです。

無理、なのは無理なのです。

限界は、

もちろん限界です。

つまりすべては主観的な問題なのです。

たとえそれが客観的には何も成し得ていないとしても、

自分の体調が明らかにおかしいのなら、

必然的に、明らかにおかしい負荷が心にかかった、と言えます。

その不遇と苦難の結果として、脳の圧感は高まった、と言えます。

だから私はどうやっても、

彼らは努力をしたのだ、と言うのです。

それは私を含めて、言えることです。

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