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論理恋愛論考
1人の人間がノイローゼで苦しんでいたとする、ノイローゼ故にその問題はかなり実存的なものとなっていた。それ故彼はその悩みが彼女や友人には理解できることではないと思い、さらに孤立を深めた。
しかし彼女や友達は「最近1人で考えすぎたのではないか?」と指摘した。それによって本人はハッと自身の孤独に気がつき、生きる気力を取り戻した。
このことから実存的苦悩は第三者に解決できずとも、その本人が実存的苦悩に至るまでになったノイローゼの原因(ここでは孤独だった)は、第三者に理解することが可能であった。そしてそれを実際に第三者が本人へ伝えた。
これが"他人"がいることによる福であり、これが人間は社会的動物である、と言われる所以と考えられる。関係性がなければ、絶対的に心は自立することができない。
故に彼女や友達に関しては(もちろん共に実存的苦悩までを話せるならば話は早いのだが)、彼女である、友達である、というだけで一つの幸福を現していた。
人間、孤独というものが一番悪いと言われる所以である。
故にマイノリティと言われる人種の人たちも、本当の意味でマイノリティを名乗るところには必ず、他者との関係性が存在する。
本当の意味でマイノリティであっては、マイノリティを名乗ることはできない。関係性があってはじめてマイノリティを名乗ることができる。
これを構成する必要最低限単位が誰か1人との関係性である。
では結婚というものを考える時、価値観の相違はどう考えたらいいのか。価値観が同じでなければ一緒に暮らしていくことができない、とするならば、誰も結婚することはできないだろう。
つまり結婚は価値観を理解できずともその関係性を築くことができる。そして、相手の価値観を応援するという形でもって結婚生活は保全される。
「互いが見つめ合うのではなく、互いが同じ方向を向くことこそ、真の夫婦関係である。」
では不倫はどこから派生するのか。上記した通り、互いがある同じ方向を見て手を繋いでいたら、不倫をすることはない。故に不倫が発生する原因はお互いがお互いを見つめあっていた時か、お互いがそれぞれ違う方向を見ていた時である。
ではその違う方向はどこから来るのか、それはつまるところ本人が自愛をできていないところから来るのではないか。本人が自愛をできていなければ、必然的に他者を愛することはできない。
故にここから、本当の意味で愛のある性交をしていない場合、そこから生まれる子どもは機能不全になる確率が高い。
機能不全の元を辿れば、その性交が愛のあるものではなかったのではないか。
では愛のある性交とは何か。愛のある性交は「自分を失っても、自分を失わない性交」である。故にここも自己の確立ができてはじめて、相手とまぐわうことができる。はっきりとした自分があるからこそ、相手と一体になり自身の心が不明確に、惑いに、誘われようとも自分を失うことがない。故に自愛ができてはじめて他愛をできるのであり、自愛ができてはじめて愛のある性交を行うことができる。
では愛のない性交は如何なるものか。おそらくそれは支配欲である。愛のない性交は支配欲、つまり相手を自分のものにするという、"服従"である。服従は愛ではなく、欲望である。故に機能不全者は支配欲の性交をする。
支配欲は他者の尊厳の無視である。故に子どもができてもその子どもを尊重することができない。故に自愛ができない親のもとで育つ子どもは、尊重されることがない。
では尊重されることがなかった子どもはどうなるのか。尊重されることがなかった子どもは同様に自愛ができない。故に余程のレアケースをのぞいては親と同じ過ちを繰り返すことになる。要は支配欲の性交をするようになる。ここが青年少女の援助交際の起源だと思われる。故に早い段階での性交は本人の成熟さを現すものではない。未熟さを現す証拠である。その証明として彼らは自愛をできない。
では肝心の自愛をできるようになる原因は何であろうか。それは清潔な劣等感、善の恥、怒り、自分の運命への覚悟、である。
清潔な劣等感は、劣等感は持つもののそれが人を傷つけるところには発揮のされない劣等感である。そしてそれは自分の向上に充てられた劣等感である。要は悔しいから見返してやろう。(厳密には悔しいから「自分が能力を上げて」見返してやろう)
清潔ではない劣等感は"いじめ"であり、"誹謗中傷"であり、"他者を引き下げる行為"である。要は自己の向上には充てず、他者を引きずりおろす方法でのエネルギーの出力である。
この清潔な劣等感と善の恥は同じである。そして清潔でない劣等感と悪の恥、が同様と言える。善の恥は自己向上、悪の恥は他者損害に結びつく。
次に怒り、である。怒りは理不尽に対する怒り、であり、自分の運命に対する怒り、である。故にこれも自己向上に向けられるエネルギーである。理不尽に虐げられノイローゼとなる、その社会の倒錯、圧倒的矛盾、軽薄な精神性、虚弱な自信、それら諸々に対する問題提起、決起である。
ここを通してはじめて世の中の理不尽を認め、自分を追いやった社会について考えるようになる。
最後に、自分の運命への覚悟である。自分の運命への覚悟はそれら諸々の社会倒錯を見つめ、理不尽を味わい、その上で「私はそれでも生きる」「もう一度!」と決心を決めることである。これは社会の倒錯を受け入れ、そしてその上で生きることを選び抜いたのであり、これまで主権を与えられなかった人間がはじめて主権を取り戻した瞬間である。ここで自愛が完成する。
つまり自愛は機能不全に生まれ落ちても可能である。理不尽により心に傷を負う(それが清潔な劣等感となる)、そして世の中に対する怒りを認める。そして自分の人生を生きるという、自分の運命への覚悟が決まる。これこそが機能不全者の主権を取り戻す戦いの道程であり、勝利の道標である。そしてもうお分かりの通り、そこには自分しかいない。
つまり要は最初に掲げた他者との関係性とは、自分の未主権、自愛をできていない、を指摘してくれる関係性が必然的に良好な関係となり、つまり自愛を育んでくれる関係性こそが友人と彼女とに該当する。
他者との関係性はつまるところ、他者が他者を促進する、という点にあるということが帰結する。そしてこれが愛であると決定する。
故に愛とは他者が他者らしくあることをよしとする感情である。故にこの愛を伝えられることができる人間は必然的に自愛ができている人間でなければならない。
この自愛-自愛のサイクル、これこそが世代性だと言うことができる。つまり世代性の最小単位は自愛ができる人間(それは2人のうち1人でもいい)の会話、である。
そして故に会話が世代性を現すことが可能であり、それは必然的に社会貢献であると言える。つまり自愛を育む世代性のやり取りは、そこに金銭がついていなくとも社会貢献である、と規定する。
それ故に働かざるもの食うべからず、という言説は成り立たないことが証明される。そしてまた、金銭を稼いでいるものが社会的に優れた存在である、という言説も否定される。
逆説的に言えば金銭を稼いでいても、その本人が自愛ができていなければ、それは本当の意味で世代性にはならないと規定されることになる。
それはなぜなら「社会」ではないからである。そこには他者が存在しないからである。故に他者が存在しない自愛不全のものが上司になった場合、その部下は人としての尊厳を認められることがない。故に部下の心は歪みを受ける。ここではこれ以上の説明は省く。
故に自愛に繋がりうる清潔な劣等感、善の恥、怒り、自分の運命への覚悟が最も崇高なものと規定される。
そしてそれを感じることができるのに年齢の老少は問わない。
故に理不尽に晒されている小学生は生きる価値があり、理不尽に怒る中学生・高校生は生きる希望がある。
故に教師はいかなる理由を持ってしても、この中学・高校生たちを叱る理由はできない。もし仮に叱る理由ができるのだとすれば、それは自分を大切にしなかった場合、それだけに限定され得るだろう。
そして本当の意味で他者の尊厳を理解した怒りは、相手にも想いが伝わるものである。それは目と目を通して伝わる。
逆に言えば口角泡を飛ばして怒り散らす教師がいるとすれば、それは教師の自愛不全であることが証明される。つまりは教師のプライドが傷つけられた、(正確には傷つけられたと教師自身が思った)のである。
故に教師の怒りは他者の尊厳を理解して行われるものではなく、それは自らの自愛の不全から発生するものである。故に一部の本当の自愛を尊重する怒りを除いて、教師の怒りによって生徒の自尊心が傷つけられていい理由はできない。
故に不全な教師生徒関係があるとするならば、それは自愛ができない教師と自愛ができない生徒とのやり取りである。
これが社会的問題に発展する。
故に社会的問題の根源は自愛ができないこと、ということが証明される。
しかし先述した通り自愛は自分の覚悟によってなされるものである。故に理不尽を受けたから、俺はこんなことになってしまった、だから俺も社会を壊す、という思想には成り得ない。
故に社会を壊す人間は絶対的に自愛ができていない人間と規定される。
そしてそれを解消するのがカウンセラーという仕事である。故にカウンセラーという仕事は聖職である。(これはカウンセラー信仰を生むためのものではない)
故にカウンセラーは自愛を応援するものでなければならない。故にカウンセラーはカウンセラー自身が自愛をできていることが絶対条件となる。
そうしてはじめて「2人うち1人でいい世代性のやり取り」が完成する。故に社会貢献はそこで完成する。故に社会貢献の最小単位は会話である。
以下の理由により、健全な友人関係・恋愛関係、社会貢献の最小単位、世代性の性質、そして生きる意味が決定される。
故に生きる意味とは自分を生きることである。
参考:
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
野矢茂樹訳
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』
氷上英廣訳
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