仏説父母恩重経には親不幸だと地獄に落ちる、と聞く。しかし心理学的な観点から見ると、私が親に対して"怒り"を持った瞬間は、私が私として生きる上で最も大切な転換点だった.
仏説父母恩重経には親不幸だと地獄に落ちる、と聞く。しかし心理学的な観点から見ると、私が親に対して"怒り"を持った瞬間は、私が私として生きる上で最も大切な転換点だった.
私が親に対して透徹した怒り、を持ち始めたのは19歳の頃です。
それは"反逆"でした。
怒り、と言うより、"反逆"と言うほうが合っています。
手をあげたり声を荒げたりは一切していません。
しかし親に対しての怒りを自分の中で悶々と燃やし尽くしてはいました。
それから20歳、21歳、22歳と、
親の心理分析を進めてきました。
21歳の頃にたどり着いた結論は、
母は置いといて(あまり何も考えていないため)、
父は、
「心に自己陶酔を抱え、胸に破壊衝動を秘めた、他人の不幸を本心では喜び、仕事上では見かけの同情心で行動する、若干10歳の少年の精神に、大人の分別が形として乗っかっただけの、1人の、未成熟な子ども」
でした。
しかしそこではまだ完全に理解したとは言えず、
それからも父親の心理分析を進めてきました。
親に怒りを持ってはならない、うざいと思っただけでもダメ。
私は仏教でこのような言葉を聞きましたが、
私の3年間の鬱病は、
それに対しての反抗でした。
そして色々な本や素晴らしい方々の助言、
心理学や精神医学を学んでみて分かったのは、
19歳で親に対して透徹した怒り、反逆を持ったのは、
この"私"が"私"として生きるために最も必要だった出来事であり、
最も重要な転換点だった、ということです。
親を大切にしろ、世の中ではそう言われますが、
私の場合は親を捨てろ、が正しかったのです。
それに三年間、悩みました。
仏は除苦悩(じょくのう)を使命として活躍される、つまりは人々の苦しみをなくしたくて活動される、と聞きました。
私にとっての除苦悩(じょくのう)への道筋は、
親に対して怒りを持つ、ところからだったのです。
こんな結末は、まったく意識できませんでした。
そもそも世間に言われることと、180°違ったのですから。
仏教は科学とも共振する、と聞いたことがありますが、
もし仏教がありとあらゆる学問の真髄の部分と合致するのなら、
私が支えにした心理学概論、エリクソンやあるいは泉谷閑示先生の言われるうつの効用、はたまた親に対する怒りを持つという自分の精神の成熟、
これらを応援するのが仏教のはずです。
ただ私たちの欲情を抑え込んで、機械的に欲を働かなくし、そしてノイローゼに追い込む、
こういう教えは、仏教ではない、と言えます。
なぜなら仏教が応援するはずの、心理学と精神医学に反するからです。
私は三年間、ここのところが分からず鬱病でした。
今は離れ離れになってしまった過去の友人も、おそらくこれを教えてくれる人がいれば、また違った未来がひらけていたのかもしれません。
私ははっきりと明言しますが、
私は世の教え、についていけない異端児であり、
世の中のレールに沿って歩けないはぐれ者です。
二千年以上前のギリシャの時代ではこの"はぐれ者"こそが最高の生き方と言われていました。
しかし現代では真に自分にとって大切なことに目覚めた人間は、
"異端者"と言われる時代のようなのです。
この二千年間の間で、
私たちの価値観はすっかり顛倒(てんどう)してしまいました。
最も善を修めた人間は、最も悪だと言われてしまうような、
薄っぺらい世の中になってしまったようです。
だから私たちは、世の中と逆をいくような人間を、
誰も気づかないところで承認するのです。
手をあげたり、声を荒げたりはしません。
それでは親と一緒になってしまうからです。
しかしながら「私はあなたを愛すことはできません」そう言っているのです。
別に復讐をしようとか、手をあげようとは思っていません。
それでは親と一緒になってしまうのですから。
ただ、「もう私に関わらないでください」
そう言っているだけなのです。
そしてそのお経には親不孝な息子に対して母親が、「どうして私はこんな子を生んでしまったんだろう、私がいなければお前は育つことができなかったのに」と言っているらしいですが、
そしてそれを言わせた息子は地獄に堕ちる、と聞くのですが、
私の疑問点はそこです。
なぜならそれは母親が見返りを求めているからです。
本来親の愛情とは無償の愛であり、
最も純粋に近い、見返りのない感情、と聞きます。
私がいなければお前は育てなかったのに、どうしてこんな親不孝な子を生んでしまったのだろう。
そこには見返りを期待している心、があります。
エリクソンや精神医学を学べば分かることですが、
母は本能的に子どもを守るのです。そしてそこに見返りを期待する感情はありません。
つまりこれに付け加えるとするならば、
「ああ〇〇、大丈夫か、大丈夫か」と母親が常に息子を心配していれば、
その母親を放っておいた息子が地獄に堕ちる、というのも納得ができます。
しかし私はこれだけやったのに、お前はちっともそれを返してくれない、
このようなことを言う見返り心の親心に応えるのが、
真の親孝行と言えるのでしょうか。
親孝行とは本来、
どこからか「やれ」と言われてやるようなものではなく、
自然にやりたくなる、感情ではないでしょうか。
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