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苦悶した人のみぞ知る

おそらく永遠の狭間に安置した人間は死ねない。死ねないで死ぬ。それは慢心から来る。慢心は欠落から来る。

欠落は親の欠落から来る。その親の欠落はどこからかは分からない。

永遠の狭間に安置した人間は基本不機嫌である。機嫌がいいのは自慢話をする時か酒が入ったときである。

酒は「そのためだけにある飲み物」、なのかはわからない。一つの側面としては人生を泡にし、「解決した風」な体験をもたらすことだけはあるようだ。

しかし断じて解決はしていないのだ。

慢心は横柄である。そして冗談は独善的でつまらない。

時として見る人が見れば幼稚である。

しかしどこから来るのかは分からない。分からない。

永遠の狭間は「恥を感じたくない」それである。しかしその思いが皮肉にも「恥にまみれた人生」を形作る。

それがどこから来たのかは分からない。

慢心、幼稚、恥を感じたくない、永遠の狭間、はアイデンティティが見つかっていない。アイデンティティ形成を足すもの、だと思っている。しかしアイデンティティ形成は"引くもの"である。

アイデンティティ形成を足すもの、と思っている人物は難癖をつける。そのため彼が獲得するのは仕事上の関わり合う人からの"恐れ"だけである。

どこから来たのかは分からない。

長生きはしても、満足はない。責任転嫁を、するからである。自省はしない。

自省を時として語ったとしよう。
しかしそれもまた自慢である。
自らを卑下する自分、という自慢である。その証拠に彼の顔は苦悶ではなく悦を現す。

自省は悦と区別される。自省は苦悶、悦は慢心である。

このような慢心を告発する内容は、残念なことに(そして素晴らしいことに)自省的な人間にしか届かない。結局、彼らは見ないのだ。

しかしまた、彼らはどう死ぬ。死の瞬間さえも満足した人生だった、と悦にひたるのか。しかしながら彼の心に優しさの遺産はない。

優しさの遺産は怒りの克服、あるいは怒りの融和である。

永遠の狭間は怒りの昇華の不全である。その結果として彼らは怒り狂う。なぜなら彼らの自尊心を傷つけるからだ。

怒り狂う人は、自尊心の肯定、自愛をできない。その扉を開くのがおそらく求道・読書である。つまりは彼らは読書をしなかった。

特に別にまた、なんの影響も与えない人物が亡くなるだけなのかもしれないが、しかし彼らはなんと影響も与えないどころか、害を残して死んでいく。

残した害が後の人々の精神疾患である。

彼らは言うだろう、「この人生に後悔はない」と。
しかし後悔がないこと、それが後悔である。
生きなかったのだ。

永遠の狭間は大通りである。そして大通りの対人関係は、同じ極のマグネットの如くである。要は同じでいて、くっつかない。

逆はこうである。
「違っていて、とてもよくくっつく」

この差はどこから生まれてくるのか、おそらく苦しんだか、苦しんでないか、である。

味わったか、味わってないか、である。

味わっていないのは、味わっていないのだから、生きてはいなく、死ぬこともできない、である。死ぬことはできない人間だけ、自己実現は他者に転嫁するのである。

己の自己実現は、彼らには荷が重かったのである。

なぜならお父さんお母さんが愛してくれなかったから!

しかしながら、愛は自分の中に活動するのである。

愛は自分の中に車輪の如く、である。

彼らはそれをまだ知らない。

そして別に知りたくもないのだろう。

今日も季節は移ろい変わるのである。

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