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古代中国の宰相と将軍たち0021

趙盾

 趙盾の父である趙衰は驪姫の乱後、重耳に従って諸国を放浪していた。やがて、趙衰は亡命先ので族長の娘、叔隗を娶り、趙盾を儲けた。その後、重耳は晋に帰還して文公となり、趙衰も高位に上った。さらに趙衰は文公の娘、趙姫[2]を娶り、新たに趙同趙括趙嬰斉の三人の子を儲けた。本来ならば、主家の娘の趙姫が正妻であり、趙盾は嫡子になれないはずだった。しかし趙姫が、叔隗と趙盾を呼んで正妻と嫡子にするよう、趙衰と文公に進言し、これが受け入れられた。

 元前621年、文公の跡を継いでいた襄公により、狐射姑が中軍の将になった。趙盾は中軍の佐になったが、襄公の太傅(公子に付いて教育する役)であった陽処父の推薦で、趙盾が中軍の将にされた[3]

 同年、襄公が没したが、太子の夷皋はまだ幼かったので、群臣は襄公の弟を立てるべきだと話し合い、趙盾の意見で、に仕えていた公子雍を呼び戻すことになった。しかし、狐射姑がにいた公子楽を呼び寄せようとしていたので、趙盾は刺客を放って公子楽を殺してしまった。狐射姑は亡命したが、このことで反対派の動向を恐れるようになった趙盾は考えを変え、夷皋を晋公に立てることにして、秦軍に護衛されてきた公子雍を軍を出して追い払ってしまった。このとき、公子雍を迎えにいっていた先蔑と士会は秦へ亡命した。秦は当然、晋に対して不快感を持ち、攻撃してきたが、これは撃退した。しかし趙盾は、士会が秦にいることを憂い、策を使って呼び戻した。

 翌年、夷皋は即位して霊公となった。当初は趙盾の言うことをおとなしく聞いていた霊公だが、長ずるに従って逆らうようになり、趙盾が諌めても聞こうとしなかった。 霊公と趙盾の対立は日に日に深まり、紀元前607年、霊公は趙盾を殺すために鉏麑という刺客を送った。 しかし、趙盾の屋敷にやってきた鉏麑は、趙盾の身の修め方を見て、殺すことは正しくないと考え、自ら頭を木に打ち付けて自殺してしまった。霊公はそれでも諦めず、に刺客を潜り込ませて、趙盾を殺そうとした。趙盾は人の助けでこれを逃れ、亡命しようとしたが、従兄弟の趙穿が怒って霊公を殺してしまった。このとき、趙盾はまだ国境を出ておらず、慌てて宮殿に戻り、襄公の弟の公子黒臀を迎えて晋公に立てた。これが成公である。

 霊公の死に関しては、太史(史官)の董狐によって、晋の国史に「趙盾、その君を弑す」と書かれてしまった(弑すは目上の人間を殺すこと)。 趙盾は「自分が弑したわけではない」と抗議したが、董狐は「あなたは霊公が殺された後、国境を出ずに帰ってきた。すなわち、その時点であなたはまだ晋の正卿であるのだから、反逆者である趙穿を誅する義務があった。それをしなかったのだから、自らが弑したのと同じだ。」と答えた。この後、趙盾はこのことに関して一切反論しなかった。

 その後、趙盾は異母弟の趙括を公族にすることを成公に願い、受け入れられた。趙姫の恩を忘れなかったのである。

 紀元前601年、長きに渡る正卿の地位を郤缺に譲って引退した。いつ死去したのかは不明であるが、「」の諡を与えられ、以後、趙宣子と呼ばれるようになる。

 生前、趙盾はある夢を見た。この夢を占ってみると「絶えて後よし」と出た。この卦のとおり、子の趙朔の時代にその威勢を妬まれて一族皆殺しの目にあったが、唯一逃れた趙武が趙氏を復興し、大いに栄えた。

趙武

 中国春秋時代の晋の政治家。晋の趙氏4代(再興)

 姓名趙武(嬴姓趙氏)時代春秋時代生没年前597年 - 前541年12月7日字・別号趙文子(諡号)本貫・出身地等職官新軍の将→上軍の将〔晋悼公〕
次卿・中軍の佐→正卿・中軍の将〔晋平公〕陣営・所属等景公厲公悼公平公家族・一族父:趙朔
母:趙荘姫
子:趙成

 趙 武(ちょう ぶ)は、中国春秋時代政治家。父の代に一度は滅亡した趙氏を再興させ、晋との和睦を成し遂げる大功をあげた。

 紀元前597年、趙武が生まれる直前に父趙朔をはじめとす族が、司寇の屠岸賈によって、皆殺しにされた。かつて、一族の趙穿霊公を殺した罪を問われてのことだったが、母の趙荘姫は公室から降嫁していたために、命を助けられた。趙荘姫は後宮に戻ったが、このとき、すでに趙武を身篭っていた。

 誕生した趙武を屠岸賈の追及から逃すために、趙朔の食客だった公孫杵臼が趙朔の友人だった程嬰と協力して策を練った。公孫杵臼が他人の子を趙武に見せかけて抱き、趙朔の友人だった程嬰がそれを趙武だと言いふらしたことにより、公孫杵臼と替え玉の子供は殺された。程嬰は、趙朔から趙家再興を託された韓厥の支援を得て趙武を山中に隠した。公孫杵臼と程嬰の忠義と機転は、元の紀君祥(きくんしょう)による雑劇趙氏孤児』で広く知られている。

 紀元前583年、大叔父の趙同趙括兄弟が趙荘姫や欒書との対立が元で攻め滅ぼされる等、趙衰以来の家系は断絶に等しい状態にあった。しかし、病に倒れた景公韓厥が説得したため、成人した趙武が景公に拝謁して、趙家再興を許された。

 趙武は韓厥や欒書とともに屠岸賈を攻め殺した。復讐を成し遂げ、韓厥・欒書・智罃士燮荀庚(中行宣子)から祝辞を受けたが、直後に程嬰が「地下で趙荘子(趙朔)と公孫杵臼に報告したい」と自害すると号泣した。そして、彼のために3年間喪に服し、また、趙家の廟に彼を祀った。

 以上の話は『史記』趙世家によるものであり、劉向新序』節士篇と『説苑』復恩篇に見える話も『史記』とほぼ同じである。

 これに対して『春秋左氏伝』(成公4年・5年・8年)によれば、趙朔の死後に妻の趙荘姫が、趙朔の叔父の趙嬰斉と私通し、趙嬰斉は兄の趙同・趙括によってに追放された。趙荘姫はそれを恨んで「趙氏が乱を起こそうとしている」と景公に讒言したため、趙一族はみな殺しにされた。ただ趙朔の子の趙武のみは趙荘姫に育てられ、のちに韓厥の進言によって趙氏の後継者とされた、と記されている[1]

 紀元前573年、趙武は悼公から新軍の将に任命され、卿としての第一歩を踏み出した。紀元前560年には韓厥の子の韓起の推挙を受けて、上軍の将へと昇格したが、栄華を極めた趙一族が一度は瓦解したことを教訓として、徳を積み、常に温和な風貌を保ち、自ら一歩退く姿勢をとり続けた。

 紀元前548年士匄(范宣子)逝去の後を受けて正卿・中軍の将となると、次卿の韓起や相談役の羊舌肸(叔向)とともに、南の大国であるとの講和を目指した。紀元前546年7月に弭兵の会を催して、楚や等の周辺諸国との講和を実現させ、晋の名宰相と世に称えられた。

 しかし、紀元前541年になると、急激に体の衰えを見せ始めた。もう先がないことを悟った趙武は、同年12月1日に祖先の合祭をおこなった。その直後の12月7日に死去。享年57。趙家を再興させ、楚や周辺諸国との講和という大業を成したことから、諡号「献文」を諡され、趙文子と呼ばれることになった。

趙 鞅(ちょう おう) 趙簡子と呼ばれる。

 中国春秋時代の晋の政治家。晋の趙氏6代

 趙 鞅(ちょう おう、? - 紀元前476年)は、中国春秋時代の政治家であり。趙簡子と呼ばれた。趙武(趙文子)の孫で、趙成(趙景子)の子。趙伯魯趙無恤(趙襄子)らの父。

 趙鞅は文公に仕えた趙衰(趙成子)を初代とする6代目の趙家の当主で、趙朔(趙荘子)の代で一時衰退した趙家を興隆させた趙武を祖父に持つ。その趙武は宰相にあたる正卿・中軍の将となり権勢を築いた。しかし、父である趙成は祖父と異なり、次卿・中軍の佐まで昇進したものの、正卿にはならずに亡くなった。後を継いだ趙鞅は下軍の左となり 六卿の一角となる

 ある時趙鞅は、晋随一の賢臣として名高い羊舌肸(叔向)に「の宰相の仲孫蔑(孟献子)は、彼の為に戦う家臣が5人もいるのに、私には何故1人もいないのでしょうか?」とこぼしたが、それに対し叔向が「それはあなたが欲しないからです。もしあなたが欲するのなら、私がその勇者になりましょう」と答えるなど、趙鞅の才能は叔向からも認められていた。

叔向別名羊舌 肸(ようぜつ きつ、生没年不詳)は、中国春秋時代公族政治家羊舌叔向羊舌職の子。同母兄に羊舌赤(伯華)、同母弟に羊舌鮒(叔魚)、異母弟に羊舌虎(叔虎)。平公の傅をつとめ、該博をもって知られた賢人。妻は巫臣夏姫の娘。

 ある時悼公が太子彪(のちの平公)の元服が済んだあと、台上にのぼって国都の城内・城下を見下ろし「ああ、楽しいものだな」と言った。側に控えていた汝斉は「下の眺めがどれほどよろしくとも、徳義を行う楽しみにはおよびません」と言った。悼公は「何を徳義というのか」と問うた。汝斉は「諸侯の行為をみて、善事を行い、悪事を戒める。これを徳義と言います」と答えた。悼公は再び問うた。「では、その徳義を実行できるものは、誰か」。汝斉は躊躇わずに「羊舌肸が、諸国の歴史を熟知しております」と薦めた。悼公は叔向を太子の傅に任命した。

 若くして死んだ名君悼公の後を継いだ平公は、悲しい歌を好み、女色にふけるなど、決して君主としてすぐれてはいなかったが、叔向の指導のもとに心胆を練りなおし、晋の覇権を維持して大過なくこの世を去った。それゆえ官人の半数が叔向の徳を慕い寄ったという。

 羊舌氏は晋の権門である六卿の家柄ではなかったので、国家のため派閥を越えた判断を必要とされるたびに、晋の君主や正卿は叔向に下問した。

 楚の令尹子木は「晋が覇権を握っているのも当然です。叔向が卿を補佐しているからです。楚にはかれに相当する者がおらず、敵いません」と言った。

 あるとき正卿の韓起が貧乏である事を嘆くと叔向はこれを祝った。韓起が理由を尋ねると、叔向は「欒氏や郤氏は裕福であり高慢であった為に人の恨みを買って滅びました。今あなたは貧乏であるので徳義を行うことができます。それ故祝ったのです」と言った。韓起は額づいて「滅びる所をあなたのお陰で長らえることが出来ました。先祖桓叔以下、感謝いたします」と言った。

 紀元前540年[要出典]、晏嬰が使者として晋にやって来た時、叔向がその応対にあたった。 晏嬰が「斉の政権は田氏に帰するでしょう」と言うと、叔向も「晋も末世です。晋公は政治を省みず、政治は卿によって行われています」と言った。

 紀元前536年子産が形鼎(成文法)をつくったことを聞いた叔向は「鄭は必ず滅びるだろう。政治は人をみて行うものだが、法律があれば人は人ではなく法をみるようになる。どうして国を保てよう」と予言した。

 紀元前528年、雍子と邢侯(巫臣の子で、叔向の妻の兄)が領地の境界争いをしたのを、叔向の同母弟の叔魚が裁定する際、雍子が娘を嫁がせたのを受けて、叔魚は雍子に有利な裁定を下した。その為、これに怒った邢侯が叔魚と雍子を殺害する事件が起きた。 正卿の韓起も苦慮したこの事件を、叔向は三人とも同罪として、叔魚と雍子は遺体晒し、邢侯は死刑に処した。

 叔向はではなかったが、平公の側近として、卿の相談役として、晋の政治に絶大な影響を与えた。

 紀元前520年王室にて景王が狩りの最中に心臓発作で崩御した後に即位した太子の猛(後の悼王)と王の庶兄・王子朝との間に後継争いが勃発し、周都が灰燼に帰した際に、趙鞅は太子猛の要請にて晋軍を率いて王子朝軍を破り、紀元前516年に太子猛を即位させる等の功績を残した。

 紀元前514年、趙鞅(趙簡子)は正卿・中軍の将の魏舒(魏献子)や他の六卿の誘いに乗り、公族の羊舌氏(叔向の子の家)と祁氏(祁奚祁午の子の家)を滅ぼし、その領地に子息達を大夫として配置して勢力を固めるなど、調和を目指した祖父の趙武とは正反対の道を歩むようになる。

 その翌年の紀元前513年、趙鞅は荀寅(中行文子)と共に、士匄(范宣子)が定めた法を鼎に彫り付けた刑鼎を公開し、これが晋で初めての成文法となった。

 紀元前501年には、魯で数々の悪名を流して晋に亡命した陽虎を、全家臣の反対を押し切って召し抱えた。この事に恩を感じた陽虎は、以後趙鞅のために奮闘するようになる。

 趙鞅(趙簡子)はある時、自宅へ姑布子卿という人相見の名人を招いた。子供たちの人相を見た姑布子卿は「将軍になられるような人相を持った方はおられません」と伝えた。趙鞅は落胆したが、実は姑布子卿には末子を見せておらず、姑布子卿はこの末子を見た瞬間、「将軍になられる方である」と予言した。その子こそ、後の趙無恤である。当初、趙鞅は長子の伯魯を後継者にしていたが、彼も無恤の能力を認めて彼を後継者へと据えた。

 また趙鞅がある時、大病に罹患して丸々2日間半も昏睡状態に陥り、当時の名医として知られる扁鵲の診察を受けたことがあった。この最中に不思議な夢を見た。その夢の中では天帝のもとで百神と遊んでいた。0

 趙鞅は2頭の熊を殺し、それに喜んだ天帝は、

  1. 2つの箱を趙鞅に下賜。

  2. 天帝のそばには1人の子がいて、

  3. 天帝から狄(てき)の犬を預けられて、子供が壮年になったら与えるように、と言われていた。

 意味が解らずいた所、天帝から派遣された男と遭遇し、意味を告げられた。

  1. は晋国内にいる卿を2家討伐するということ、

  2. は趙鞅の子供が狄(てき)の地において2つの国に勝つということ、

  3. はその子は趙鞅の子であり、

  4. 狄(てき)の犬とは北方の代という地域を治めている君主の事で、代の地を趙鞅の子が支配するようになる、

 ということであることが解った。これらは全て趙鞅と無恤の将来を言い当てており、

  1. は中行氏(荀氏本家)と范氏(士氏分家)を滅ぼすこと、

  2. は無恤が代を攻め滅ぼし、晋の卿である智氏(荀氏分家)を滅ぼすこと、

  3. で言っている子とは無恤であること、

  4. は無恤が代を滅ぼした結果、領有するようになったこと、

以上の4つのことを指している。

 その後、晋国内でも権勢を握っていた六卿の中で争いが勃発、趙鞅は中行氏当主の荀寅(中行文子)と、その姻戚の士氏当主の士吉射(范昭子)と敵対するようになり、紀元前497年に、晋公室を名目上の後ろ盾として、趙氏・魏氏(魏侈、魏襄子)・智氏(智躒、智文子)・韓氏(韓不信、韓簡子)の4氏が合同で2氏を滅亡させることになった。これ以降、晋国内には諸侯に匹敵する広大な領地を持つ4家の台頭を生んだ。

 趙鞅が士氏・中行氏と抗争を続けている最中の紀元前493年頃、の太子蒯聵が後継争いに敗れて晋に亡命してくる事件が起き、趙鞅は蒯聵を保護する。その13年後の紀元前480年、趙鞅は衛を攻撃して、蒯聵の子で衛公となっていた出公を出奔させ、蒯聵を衛公(荘公)の座に就けた。

 その一方で趙鞅は、衛の国内に趙氏の勢力を多数扶植しており、その一つの戎州が荘公の攻撃にあった際には出兵して荘公に謝罪させ、この事が後の荘公横死に繋がるなど、趙鞅の権力は中堅諸侯をも上回るものとなっていた。

 趙鞅は無恤に、趙家の事と代への夢を託し、亡くなった。死後、「」を諡され、趙簡子と呼ばれる。

趙 無恤
 7趙 無恤
(ちょう ぶじゅつ / ちょう むじゅつ、? - 紀元前425年)は、中国春秋時代の政治家。無恤趙襄子と呼ばれる。趙鞅(趙簡子)の末子。

 趙鞅(趙簡子)が当時人相見として高名であった姑布子卿を招いて子供たちを見せた時、姑布子卿は無恤のみが大成すると予言した。しかし、無恤の母は族出身で、身分も下卑だった。その上に無恤は末子であったので、この時の趙鞅はこのことを聞き流した。
 後日、趙鞅は子供たちを集めて「私の宝の符を常山の頂に隠してある。見つけたものに褒美をやろう」と言ったが、子供たちは誰一人として見つけることができなかった。
 しかし無恤だけが帰ってきて「宝をみつけました」と言った。趙鞅が「見せてみよ」というと無恤は「常山の頂に立つとを見下ろすことができますが、代は取ることができます」と答えた。そこで趙鞅はついに長子の伯魯を廃して、末子の無恤を立てた。しかし、長兄の伯魯はこれを恨まず、かえって末弟の無恤を温かく見守り、支えた。無恤も幼い時から自分を可愛がってくれた兄をますます敬ったという。しかし間もなく伯魯は病で逝去してしまった。

 やがて、趙鞅が没し嗣子の無恤が代わって立つと、無恤は喪服を脱がないうちに代王(無恤の姉婿)を偽りで招待して宴を開き、これを討ち取ってを簒奪し手に入れた。夫の代王の非業の死を聞いた無恤の姉は、弟を罵倒して自殺した。やがて無恤はこの代の地を、既に他界した長兄・伯魯の忘れ形見の趙周(成君)に治めさせた。無恤は自分が少年の頃から愛情を持って接してくれた亡き長兄・伯魯の子に栄誉を譲り、支えてくれた大恩をやっと報いた。

 後に、晋の六卿の中で最大の勢力を誇っていた智氏の当主・智瑶(智伯・智襄子)が、氏の当主・魏駒(魏桓子)と氏の当主・韓虎(韓康子)の勢力を率いて、無恤の本拠地晋陽に攻め込んで来た(晋陽の戦い)。
智瑶の水攻めで一時は落城寸前まで追い込まれるが、魏駒と韓虎に使者を派遣して「智瑶は強欲なので私が(智瑶に)滅ぼされた後は貴公らの番であろう」と述べて内応させることに成功し、大逆転で智瑶を敗死させた。
 紀元前453年の智氏の滅亡により、これ以降晋は事実上にに三分された。これをもって、戦国時代の幕開けとなる。ちなみに智襄子を滅ぼした後に、智襄子の旧臣豫譲から2度も暗殺されそうになるが失敗に終わり、豫譲は無恤の前で自害した。この様子は『史記』の「刺客列伝」に記されている。お

 無恤は、後に亡き長兄の伯魯の大恩にさらに報いるために、その子である代の成君(趙周)を嗣子に定めようとした。しかし、成君は早世したために、その息子である代君・趙浣(趙献子、後献侯)を趙の次期当主とした。
紀元前425年に無恤は死去した。「襄」と諡され、後世では趙襄子と呼ばれる。

 『史記』「趙世家」によると、無恤は空同氏(一説ではあるいはの一派)の娘との間に5人の息子を儲けていた。しかし、無恤は兄の孫である趙浣(献侯)を後継者にするために後を継がせずに、息子たちに対して「お前たちは一族として、君主を支えよ」と諭したという。だが、これを不満に思った息子たちは、父の無恤の死後に従子の趙浣を放逐し、長兄の趙嘉(趙桓子)[1]を当主に立てて趙を治める。しかし、紀元前424年に趙桓子が没すると、国人たちは亡き趙桓子の行為を無恤の遺志を踏みにじる不孝として非難し、桓子の太子とその叔父たち(趙桓子の弟)を処刑して再び趙浣を当主として迎え入れ、無恤の遺志を守った。

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