見出し画像

古代中国の宰相と将軍たち0013

周公旦 主にウィキペディアより

 周公旦(しゅうこう たん)は、中国王朝の政治家で且つ、周邑の君主。。周文公としても知られる。
 の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。
 周公は周の武王をサポートした賢人として有名であるが、一般の中国人のあいだでもずば抜けた尊敬をあつめていることは特筆に値する。かれの態度として特に強調されている「決して客人を待たせるようなことをしない」という姿勢がその尊敬のもとなのかもしれない。

周公」は称号と思われる。周の西伯昌(文王)の四男で、母は太姒

 次兄にあたる初代武王存命中は兄の補佐をして打倒に当たったとだけとしかわからない。

 周が成立すると曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していないので魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた。

 建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時回復したが、再び悪化して武王は崩御した。

 武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦はの召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。

 その中で三監の乱が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲の家督を継がせた。

三監の乱と周公


 司馬遷(しばせん)の『史記』によると、周王朝の初代君主である武王は、殷王朝(BC.17世紀頃~BC.1046…「商」とも呼ばれる)を倒した後まもなく死去し、その子供で跡継ぎの成王がまだ幼かったため、武王の弟である周公旦が幼王の補佐として国政を執った。

 武王には他にも弟が二人いて(管叔(かんしゅく)と蔡叔(さいしゅく)、この二人は周公旦が幼王に代わって執政することを不満に思い、紂(ちゅう…殷のラストエンペラーで周の武王に滅ぼされた)の子・武庚禄父(ぶこう ろくほ)と手を組んで反乱を起こしたが、周公旦はこれを鎮圧している。これを「三監の乱」(さんかんのらん)と呼ぶ。その後周公は周の都を洛陽に定め、周による中原(ちゅうげん…黄河中下流地域)の支配を安定させた。周公旦による摂政(政治の代行)の期間は7年で、その後政権を成王に返した。

 上記の説に対して近年、反乱を起こした主体は管叔・蔡叔兄弟や武庚禄父ではなく、実は殷の遺民(王朝滅亡後もその遺風を慕う民)だったという説が唱えられている。この説では、菅叔や蔡叔がこの反乱に関与していたかどうかも疑問視されている。

 ただ周公と菅叔・蔡叔ら弟たちは仲が悪かったと言われており、そのことがこの反乱説に結びついたのではという見方がある。

 儒教の経典の一つである『書経』に納められた最古の文献は周公旦の言葉を伝えるものであるが、孔子や後の儒家は、周公を高く評価し聖人として崇めた。孔子は周公を夢にまで見るほど崇拝したと言われている。

 それはなぜかというと、周公は兄武王が亡くなったとき、その跡継ぎである幼い成王から権力を奪わずに補佐に甘んじたからである。兄弟間の跡目争いなど現代においてもよくあることだが、紀元前という古い時代、弱肉強食に走らずに人としてあるべき行為をなした周公旦を孔子は尊敬したのであろう。為政者でありながら、孔子が最も評価する「仁」の人だったからだといえよう。

 さらに、引き続きが反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした。

 その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。

 また旦は、学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかった(「吾不復夢見周公」)ので「年を取った」と嘆いたという。

 「周公」の称号については旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったのでこう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。

 周公の墓はどこにあるのかは未だ謎であるが、2004年陝西省宝鶏市岐山県周公廟中国語版)付近で、それらしい墓が発見されている。

 『尚書大伝』は、「一年で乱を収め、二年で殷を滅ぼし、三年奄を践み、四年で封建し、五年で成周を営み、六年で礼を制し、七年で政権を返還した」と旦を評する。

 前漢末の思想家賈誼は旦を「文王、武王のあらゆる功績を一身にまとい、黄帝より後、孔子より前の人物では右に出るものが無い」と評した。

 周公旦は賢人が訪れると、何度でも、食事中なら口の中の食べ物を吐き出し、洗髪の折は髪を握ったまま出迎えたとされる。

握髪吐哺(あくはつとほ)

 吐哺握髪ともいう。為政者の、賢者を求め、得る気持ちの強く熱心なたとえ。周公は賢者の訪問を受けたときは、洗髪中でもたびたび洗いかけの髪を手に握ったまま、また食事中でもいったん口にふくんだ食べ物でもそれを吐き出して、待たせることなくすぐに出て面接したという故事。『史記』魯周公世家による。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?