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レジ・エンジョイ勢

私は郊外のデッカい店でレジのバイトをしている。
基本的には普通に接客をするだけのなんの変哲もないバイトなのだが、曜日や天候、どこのレジを担当するかといった条件次第では時々、限りなく暇でただボーッと立っているだけなのに時給が発生する瞬間がある。大当たりのバイト先だ。
暇なレジのうちのひとつに、外の空がよく見えるレジがある。
郊外なので周りを遮るものがなく、しいて言えばあるものは、遠くに連なる木々ぐらいだ。
今日、そこのレジでずっと、広い空から日が沈んでいく一部始終を眺めながら、ふと「もうこれ以上何もいらないかもな」と思った。割と冗談じゃなく、うっかりそこで衝動的に今後一生を決めかねないぐらいのよさがあった。そして、どういう思考を経て私がそこに至ったかを書いとこうと思った。


空いいよね

雲は季節によって形を変える。たとえば夏の積乱雲が想像しやすいだろう。
今日の雲は、和紙みたいに繊細な濃淡を持つ春の雲をしていた。春の雲というワードを聞いてもいまいちパッと形が連想されないが、今日の空を見たときにあ、これは春の雲だと直感した。さらに今日は紛れもなく空気の匂いが春だった。この言葉選びが意図を上手に伝えられるかは不明だが、春の匂いには「命を迎えますよ」という感じのやさしさがある。それがしみる。
最初、白と水色だった雲は、瞬間ものすごく華やかで眩しい金色に縁取られてその後、やわい紫色に溶けていき、明るさはやがて深い群青に吸われる。どんなにじっと眺めていても境目は判別がつかないが、空は一瞬一瞬、たちまち姿を変えていく。そのさまはどうして、何度見ても新鮮に綺麗だ。


「楽」の正体

ここで、この先の文章のために一応補足しておくのだが、私の本業はレジバイトではなく、しがない美大生だ。美大は意外と課題が多く、いわゆる人生の夏休みと形容されるような大学生ライフを送ることはほぼ不可能なほどに険しい。
私は努力が下手なので、覚えている限り中一で塾に入った辺りからずっと「早く楽になりたい」「新しい環境に移るたびに前よりもっと忙しくなるぞと言われるけど、いつになったら楽になれるんだろう」と思っていた。
今年の春休みは、実家を出てから初の何もない休みだった。課題もなく、就活もまだ少し先の話である私には、かなりの時間を自分一人の意思で自由に使える権利があった。
探し求めていた「楽」がここにあった。小学生以来ぐらいの、やっとの、「楽」だった。なんなら、自由さでいえば小学生の頃よりも「楽」だった。バイトをし、必要なお金は自分でまかない、残りのお金で好きなものを買い、休みの日は色々なところへ散歩をしに行ったり、気になる展示を見たり、気になる分野の本を読んだりして過ごした。そのほとんどが一人だったが、精神は圧倒的に穏やかだった。自分の行きたいとこに急に思い立って行ける、何時に寝てもまあOK、好きなものを好きな時に食べられる。一人なら自分のせいで他人を不機嫌にさせてしまったり、傷つけてしまうことは滅多にないし、そのことで悩むことも減る。良いのか悪いのか、自由は孤独をだいぶ上回ってしまった。
お金だってたくさんあるわけではなく、どちらかといえば貧乏ではあるが、節約しながらもある程度満足に生活できたし、欲しいものを手にいれる為にきつめの単発バイトを入れたりするのはむしろ達成感があった。全然ずっとこんな暮らしでいいなー、と思ってしまった。まったく親不孝な人間だけど。


話を戻すが、「もうこれ以上何もいらないかもな」ってじゃあつまり具体的にどういうことかといえば、自分は小規模な欲望で事足りているのに、勝手に「もっとあったほうが良いでしょ?もっと手に入るって」と、その欲望の規模を拡張させないでほしいということなのだ。
ただ、「もうこれ以上何もいらないかもな」と思えるのには、前提として、それに至るまでの色々な恩恵があるということを忘れてはならないが。よいバイト先があること、一人暮らしできる環境があること。散歩をしたら桜の花が咲いていること、展示を見に行けること、本を読めること。一人で生きていくために必要な、たくさんの人たちの存在。ありがとう。そしてここから先は全部愚痴です。


私が辞めたいのはつまり「上を目指させられること」だった。それよりもっと手前にある、「上」を絶対的な「是」の基準とする風潮だった。
あなたならこんなすごい人になれるかもしれない。若者には無限の可能性があるんだから。一流企業に就職しよう。賞を獲ろう。売れよう。俺が若い頃は寝る間も惜しんで頑張ったけどね。やっぱりそれが骨肉となってると感じるけどね。
↑この辺に関する悪口を私に言わせたらキリがないと思う。寝ろよ


私がいつ一番になりたいと言ったか

私は「一番になりたい」その他諸々の、相対評価で「是」を提示されることをかなり故意に目標にしていない。なるべくそういうのから遠いとこでやっていきたいなと願っている。
私の目標は、「自分がこれまで色々な作品に心を動かされてきたように、自分の作ったもので人の心を動かしたい」「おもしろいことがしたい」「いい物を作り、これまでお世話になった人たちに恩返しがしたい」この3つだ。ちなみにこのための努力(相対的でなく、あくまで絶対的な価値観での自分のアップデート)はほんと厭わない。
それなのに「一番や賞を取ること」を目指させられて競争を強いられるのが癪なのだ。本来の目的と違うところに熱意をあてることが、さも当たり前、共通認識のように誘導される教育が社会が嫌いなのだ。今も書いてて腹立ってる。このことが、ここまで言っても多分長ったらしい言い訳とか弛んでるとか解釈されて、多くの人に理解してもらえないんだろうなということに。
あと、ウチら自由だよねというような面を提げておきながら反面、その内側にはしっかりこのような価値観が蔓延っている美大という環境に。


芸術に順位が必要だったか

芸術に順位が必要かという疑問を、例えば無作為にX(Twitter)とかで投げかけたなら、NOと言う人は多いのではないだろうか。私もその一人だ。しかし美大というコミュニティの内部にはあまりにもナチュラルに、多分、深く考えるまでもなく、YESの価値観がかなり浸透してるんじゃないかと思う。小さな画塾で1対1で教わった人などの例外もたまにあるが、美大は受験によって基本的にランキングを楽しめる「評価至上主義」を生き残った人しかいないからだ。教える側もまた然り。

私は美術予備校の並べ替えやコンクールがマジで嫌いだった。いや好きな人はいないかもだけど。比喩じゃなく吐きそうになって過呼吸に見舞われていた。美大受験に関わったことがない人に説明するならプレバトがわかりやすい例だろう。
「才能ナシ😓」
……!?!?!?!?!!!?????!?プレバトは受験を経て完全に私の中で地雷番組になってしまった。そもそもプレッシャーバトルを喜んで見る人の心がわからない。まだ悪口言えるけどこの辺に留めておこう。
美術予備校でどんなことがあったかの詳細な経緯は思い出したくもないから省くが、評価至上主義に蝕まれた私は「どうしてこんなこともできないのか」→「私はおかしい」→「こんなこともできない自分には生きている価値がない」→「自分はいない方がいい」→「自分さえいなければみんな幸せだったかもしれない」(このへんから病みが本格的になっているので思考が一見するとめちゃくちゃなのだ)→「○ぬしかない」という思考回路を辿ったりした。私の思考の傾きによるところが大きいから実質的には関係ないことなのかもしれないが、こういう人は私だけではなかったと認識している。この辺の向き合い方に関しては誰が悪いとか責めたいわけではなく、自分を含め全体的に冷静になるべきだなと思う。


……ここまで読んだところで「もうこれ以上何もいらないかもなと思った」最初の文章にちょっと戻ってみてほしい。今現在、レジを打ち、空を眺めながら突っ立っている私のメンタルは、本当に安定しているのだ。私の言いたいことの輪郭になんとなくでも触れてくれたら嬉しい。そしてこれについて執拗に問いたださないで、そう、と受け容れてくれたら、いや、これはわがままかもしれない。

なんか色々余計なことまで書いてしまったかもしれないけど、今こんなに満たされてるのにこれ以上何を、目指させるつもりですか?もうよくないか。他人からの評価に自分を振り回されたくないー。せめて現状に満たされてない人だけでやりたい人だけで頑張ってよ。当たり前にしないでよ。と言いたいのです。もっと凝縮すると、ただ学校が始まるのが嫌なんだと思う。課題減らしてほしいな。おしまい。

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