「生と死の教育」を通して生きることの意味といのちの大切さを実感させる教育の推進

1 取り組みの内容と結果

 初任校が上野ヶ原養護学校で、赴任前に校長先生は「君はこの学校へ来たら黒い服を用意しておかなくてはいけない」と言われ、私が不思議そうにしていると「生徒が亡くなるのです。ここは」と言われました。これは大変な学校にきたと思いました。最初に担任した2人の筋ジストロフィーの生徒は天国へ旅立ちました。そういうことがあって「生と死」ということにかかわるようになったのではないかと思います。それから震災や須磨の事件が起き、その後もいじめによる自殺や少年による不可解な殺人事件が起きています。特に動機が理解できないものや子どもが人のいのちを弄ぶような事件が増えています。また全般的な傾向として生徒の生きる力が低下しているようにも思われます。A少年事件では加害者がメディアを通して自分の考えを主張し、一般の中学生が共感を持つといったこともありました。携帯やネット社会の急速な進展のなか、これらがきっかけになって「生と死の教育」について考えるようになりました。

(1) 子どもの死生観に関する意識調査

 ①生と死の教育とその目的

「生と死の教育」という言葉を聞くと、子どもによる殺人事件とか悲惨な事件、また自殺などセンセーショナルなことが起きたとき、これらを予防したり、防止したりする教育なのですかと言う方がいます。確かにそういう面もありますがそれに加えて、いじめの問題や暴力・薬物などいのちを脅かすことが起きていますから、それらから身を守る、立ち向かっていくということも入っています。しかし、その様なspecificな側面だけでなく、「かけがえのない自他のいのちの尊さに気づき、よりよく生きる力を育てる教育」という側面が一番根本にあると考えています。もっとも、「屋上屋を架す」と言われるとそうかもしれません。しかし、今日、いのちの大切さが際だって取り上げられるのは皮肉なことに「死」の問題が顕在化したときです。いのちをどう輝かせるか、価値をもたせていくか、大切にしていくかということを学んでいくためには、死の問題は避けて通れません。大人にとってはごく当たり前のことです。それが、子どもたちの世界に、学校教育の中にどういう形で入っていけるのかということを研究課題にしています。

 ②教育としての位置づけ

 「生と死の教育」というのは、いのちをどう輝かせて大切にして育んでいくかということですから、右図のようになります。環境教育や食育など様々な教育分野の根本として位置づけられると思います。


 ③「いのちの教育」ではなく「生と死の教育」なのか

 では「生の教育」ではなく、「生と死」という話になるのでしょうか。下図を見てください。よりよく生きる力、ステップ2は学習指導要領で提唱されている「生きる力」のことです。ステップ1に注目してください。いのちの大切さや尊さに対する実感や認識がなければ、よりよく生きるための「生きる力」を育成することはできません。その土台があって、学校教育というものが成り立つのです。そういう根本の根本というところを、もう一度原点を見つめて固めていく教育として、「生と死の教育」を捉えています。河合隼雄先生は

「生きること、死ぬことは表裏一体の関係にある。よき生を生きるには、時に死に想いを致すことが大切である。『生きる力』を大切にする教育の中に死のことが取り上げられるのは、むしろ当然のことというべきである」(心の教育緊急会議)という言葉を残されています。

 いのちの大切さや尊さの実感や認識にいたる前に、「いのちは有限性をもっている」というアプリオリとしての前提がなければなりません。いのちあるものは必ず死ぬ。これを死の普遍性といいます。また一度死んだものは、生き返ることはありません。それを死の絶対性といいます。死の普遍性と絶対性を合わせて生命の有限性といいます。現実の子どもたちを見たとき、いのちに対する基礎的・基本的な実感とか認識が、変化しているのではないかという疑問がありました。

 ④子どもの死生観に関する意識調査から見えてくること

 そこで、県内の子どもたちの死生観を私が所属する「生と死の教育研究会」が調査しました。子どもたちの死生観・生命観はどういうものなのか。アンケートの実施は難行しましたが大変意味深い研究成果がでました。(詳細は財団法人 ひょうご震災記念21世紀研究機構の研究年報をご覧下さい)以下のようなことが分かりました。

ⅰ生命の有限性を確立するのは9才以降(小学3年生)である。 ⅱ「死んだ人は生き返る」と答える子どもは20%程度存在し、死の絶対性の揺らぎがある。 ⅲ飼育動物の死の経験、墓参や葬儀の経験および家族との「生と死」の会話は死の普遍性の認識を高める。 ⅳ自然体験、温かい家族関係は生命の有限性の認識を高める。 ⅴ死への恐怖と生命の有限性の認識との間には相関関係がある。 ⅵメディア(テレビやゲームの暴力や殺人シーン、パソコン)は生命の有限性の認識に対して強い影響力がある。 ⅶ小学校高学年から中学校2年生にかけて自殺や他殺に対する共感・容認が高まる。 ⅷナイフの所持、自傷行為、言葉の荒れ(死ね、殺す)と死の普遍性に対する認識には相関関係がある。 ⅸ自己肯定感と自殺願望には相関関係がある。 ⅹ「人のいのちの大切さ」に対する実感と死の普遍性に対する認識には相関関係がある。


 さらにアンケートデータの中で特異な回答、つまり「人は死なない」「人は死んでも生き返る」というような回答をしている子どもを抽出して、その子どもが他の質問項目でどのような回答をしているのか統計的手法を使って分析してみました。たとえばテレビを見て人をなぐったり、殺したりすることを志向する子どもは人は死んでも生き返ると思っている割合が高い。また殺人シーンを好む子どもは、生き返れると回答する割合が有意に高く、自殺・殺人を許容する傾向があり、死ぬことは怖くないと答える傾向が高い。さらに保護者に愛されていないと思っています。詳細は割愛しますがこれらの意識調査の結果を図解したのが上の図です。これについて平成19年、和歌山県教委主催の「いのちの教育研修講座」の講師として発表しました。また武庫川女子大学主催の臨床教育シンポジウムや青年会議所の研修などで発表する機会が与えられ、様々なメディアからの反響や問い合わせがありました。また東京書籍から「子どもたちに伝える命の学び」(共著)を上梓させていただきました。

(2)授業実践(既存の教科・科目から生と死の教育を実践する)

 前任校で顧問をしていた新聞部がA少年の事件をきっかけに、「メメント・モリ」(ラテン語:死を忘れるな)という特集記事を連載しました。食肉センター、ホスピスなどを訪れることで生徒たちも私自身も多くのことを学びました。あまりにも、生の実相が見えにくくなっている時代だと分かってきました。私は、高校の理科・生物の教師です。「いのち」についてどうやって子どもたちが考えたり、子どもたちに伝えたりできるかを考えた時、専門の生物を通して何かできるのではないかと考えました。例えば遺伝の分野を扱う時には「かけがえのない自己・かけがえのない他者」というオリジナルテキストを使ってまとめを行います。どういうことをするかというと、PTCという薬品に対する味覚実験をします。濾紙をなめた瞬間ものすごく苦い顔をする生徒とまったく何も感じない生徒に分かれます。これは、メンデルでいう、ある遺伝子

を持っているか持っていないかで説明できます。そうして染色体やDNAといった教科書的な復習をしながらいのちのかけがえのなさについて話を進めていきます。例えば染色体というものを通じて、私たちは設計図を両親からもらっています。第1染色体から第23番染色体という23セットの染色体(46本)がそろわないと人間にはなりません。第1染色体というのは2本あります。1本はお父さんから1本はお母さんから必ずもらうようになっています。お父さんは第1染色体が2本、お母さんも2本あって、第1染色体の組み合わせは4通り(2×2)できます。だから、両親が同じでも、兄弟姉妹はみんな違うということになります。そうすると、人間は第23番染色体まであるので父母から生殖細胞ができる時、それぞれ800万(2の23乗)通りの生殖細胞ができるのです。そして、800万通りの1と800万通りの1が受精して、「いのち」が生まれるのです。ということは、人間というのは64兆(800万×800万)分の1の確率で生まれてきたといえます。さらに染色体の中では遺伝子の組み換えということをやるので、ほとんど無限の種類の生殖細胞ができるのです。その中で、お母さんの体の中で精子が死んでいく中で、選別や偶然が起こってあなたが生まれてくる。だから、一人の人間をもう一度この世に存在させることは生物学的に絶対にできないのです…。

 「あなたは、唯一無二のかけがえのない存在である」という強いメッセージを生徒に伝えると、どの生徒もうれしそうな顔をします。そして、「皆はかけがえのない存在であるけれど個々の人間は孤独なのかというと、そうではありません」と話を続けます。だれでも親は2人、祖父母は4人(2×2)というふうに、先祖をさかのぼっていくと、ねずみ算式に増えていくわけです。平安時代、小野小町が生きていた時代には、計算上自分の先祖は1兆人いるわけです。当時の日本の人口は、500万人もいないので、矛盾します。ということは、人間というのは、隣の人と必ず遺伝子を共有していることになります。(祖先が重なっているということ)つまり唯一無二であるけれどみんなとつながっている個ということです。このことはミトコンドリアDNAの解析でも実証されている科学的事実です。このような授業で実験や体験をしたり、議論をしたりしながら「いのち」というのは、おもしろいなぁという学びを続けています。

 昨年3月4日赤穂市立有年中学校で全校生を前に「かけがえのない自己・かけがえのない他者」と題した出前授業を経験させていただきました。以下の文章は学校通信に掲載された生徒さんの感想です。

【今日は5、6時間目に加古川の高校の先生をしている原実男先生の講演がありました。配られたプリントや前に置かれた模型などを見ていると少し難しい話なんだろうかと思いました。生物学的な視点から「いのち」について考えるということは、今まで思いつきもしなかったし、自分が生まれ、生きている意味など考えたこともありませんでした。でも、細胞やDNAなどについて知るうちに、自分が今ここで生きていることがとても不思議に思い、また少し怖くもなりました。今まで自分が漠然と生きてきて、今を生き、そしてこれからも「生きていく」という意味について考えることができたよい機会でした。(中2女子)】

 (3)兵庫県の取り組みとこれから

 平成18年3月に「『命の大切さ』を実感させる教育への提言」という冊子が教育委員会から出されました。私はプログラム策定委員として微力ながら冊子作成に参画することができました。この冊子が現場で大いに活用され「命の大切さ」を実感させる教育の一層の推進が期待されています。冊子は、大きく理論編と、実践編に分かれています。理論編には、いのちの大切さについて有識者の意見を聞いています。養老孟司氏は「教員自身が、『命の大切さ』をどう思うかということが一番大事である。『命の大切さ』というのは、人としての生き方そのものである。教員自身が日頃どう生きているか、自分がどう生きているかを問いかけること、そのこと自体が命の大切さである。命の大切さの教育は、教員自身がいきいきと生きていないと意味がない」と述べられています。実践編では「命の大切さ」を実感させるアプローチとして5つの大枠を決めました。それはⅰ誕生の喜びと感動、ⅱ成長の支援への感謝、ⅲ限りある命の尊さ、ⅳ理解し合う心に支えられた命、ⅴ尊い命を守るために(防災教育、暴力の問題、虐待の問題など)です。ⅰⅱⅳⅴは、他の都道府県でも同様のアプローチがありますが、重要なのは、ⅲを入れたことです。ⅲは生と死の教育といえます。しかし、小学校低学年の子どもたちに、本当に教えられるのか。様々な議論がありましたが、やってみようということで発達段階に応じてプログラムに取り入れました。このⅲが、兵庫県のいのちの大切さの提言では一番重要なところではないかと思います。

 現在、教育研修所の心の教育総合センターが中心となって教育実践事例が集められています。多くの先生の知恵と情熱がいのちの教育の推進力になっていくと思われます。


2 課題及び今後の取り組みの方法

 教育現場は切実な教育課題で多忙を極めています。教育実践の優先順位を考えた場合「大事な教育ですね。しかし、やることが多くて…」と、いうのが現場の本音ではないでしょうか。しかしこの教育は学校教育を変える可能性があると思います。例えば子どもたちに特別な授業という形で取り組みがなされなくてもかまわないと思います。養老氏が言うように、いのちの教育に取り組むということは私たち教師自身が、生き方や人間観に変革をもたらすものですから普段の授業をやっていたり、生徒と給食を食べたり、掃除をしているときに、その子どもたちに、先生は様々な影響与えます。「今日はいのちの、生と死の教育をするからな…」と言う授業よりも、自分も介護する祖母がいてとか、家族が交通事故が原因で車椅子なんだとか、自分が病気になった時に考えたこととか、食べ物とは命をもらうことだよとか…、その先生の指導やふれあいの端々に、先生の生き方が出ます。子どもたちとかけがえのない出会いに携わる大切な仕事、そういう任務、ミッションをもっているのが先生という職業です。「生と死の教育」は授業という形態で出なくても、子どもたちにある深みをもった影響を与えていくと私は考えます。

 そうはいってもいのちの教育を展開していくためには、その教育に対する評価も必要です。教育によって、何が変わったのか、変わらなかったのかといった、目に見える形での変化を実証することは困難かもしれませんが、必要性や有効性の実証やプログラムやカリキュラムの内容を洗練していくうえでも評価は重要だと考えています。ただし現在のところ、何をもって教育の効果とするかの明確な評価指標がないため、この検討から始めなくてはなりません。私は評価の観点として「SOC(首尾一貫感覚)尺度」に注目しています。これはストレスや生きていく上での様々な出来事を乗り越える力、つまりは生きる力をアンケート方式で測定する方法です。授業の前後で実施して結果を比較することで、いのちの教育の評価に活用できるのではないかと考えています。

 今後も「生と死の教育」を通していのちの大切さを実感させる教育の研究に取り組んでいきたいと考えています。また実践研究されている先生とネットワークを構築し、兵庫のいのちの教育の推進に今後も微力ながら貢献していきたいと考えています。

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