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昼寝

あと、私が生きられるのはどれだけだろう?
ある朝起きると、ふと、そう思った。悲しみが込み上げてきた。

布団から起き上がって、桐たんすから紺と白のストライプ柄のチュニックを出して着た。その上から灰色に近い色のセーターを着る。最後に白色のデニム生地のズボンに、黒くて少し厚手の靴下を履いた。
着替え終わると、自室から出て、下へと向かう。古びた一戸建ての我が家も寿命が近いらしく、廊下や階段を通ると、ギシギシと音を立てる。まるで悲鳴のようである。
どれだけ経ったろう。この家が建ってから…
私が物心付いた頃には、すでに建っていた。ひょっとすると、私と同い年かもしれない。父もまだ若かったはずなのに、よく建てたものである。相当無理をしただろう。しかし、父自慢のこの家も、今ではもう維持していくことがままならない。土地自体を売りに出しているところだが、いずれ取り壊され、ここに新しく、家が建てられるのだろう。
私は一歩一歩踏み締めて、ギシギシという音に耳を傾けながら、壁に付いた手すりに捕まって降りた。
 

白米に、ワカメと豆腐の味噌汁、卵焼き、そして作り置きしているキンピラごぼう。大きな食卓のテーブルには不釣合いな、侘しい朝食を済ませた。
どれだけ経ったろう。この食卓の風景に慣れてから…
 父が病院へ行き、夫もいない、娘は嫁ぎ、母は亡くなった…。

洗面所へ行った。歯茎が痩せた歯を磨いて、細い白髪をブラシで解いて、自分の顔を冷たい水で洗った。鏡をまじまじと見つめてみた。皺が寄り、隈の目立つ目元、半開きの目、白い肌、薄い眉毛、何かに上から押しつぶされたような小さな鼻、赤みの無い唇。生気がない、酷い顔である。
どれだけ経ったろう。こんな顔になってから…

 ふと、葬式の時、棺桶の中にあった母の顔を思い出した。とても厳格な人であったが、あまりにもいきなり、あっけなく、死んでしまった。生前はいつも少し眉間にしわを寄せていたが、私が見た死に顔は力が抜けており、とても穏やかで、美しいものだった。悲哀と羨望が入り混じった心地がした。

 カーテンを開けると、優しい光が差し込んできた。いい天気だ。生物の本能なのか、活動的になりたくなった。
 自室の窓を開けた。春は近づいており、震えるような寒さはない。掃除機をかけた。窓ガラスと、印刷した資料が散乱した机の上も吹いた。ついでに、本が増えて収まりがなくなっている本棚に取り掛かろうとした。流石に、本を整理しなければ、雑巾で拭くことは出来ないようだ。私は仕方なく、本の整理を始めた。
 置いてある本の種類は、様々だ。資料として買った、昔の社会や暮らしについて書かれたもの、フランス料理の本、マナーの本、仏像についての本、哲学者の本、生物学の本。学生の頃から興味のある、近現代の有名な文学作品多数と落語全集。実生活のために買った旅行ガイド、料理本、お名前辞典。そして、自身が書いた本。
 どれだけ経ったろう。作家になってから。そして、作家を辞めてから…
 
私が何故作家などをしていたのか。今でも、その正確なところは定かではない。楽しかった、作家をしていて良かった、と言い切れる自信もない。ただ、私の人生において、そこそこ大事な、生きる動力源として、物語を書く、ということは言えるだろう。
私は作家になるなんて思ってもみなかった。私は、経済的に豊かな家ではなかったから、そもそも大学へは行かないつもりだった。しかし、「お前を大学に行かせるだけの貯金はあるから、大学か専門学校は出ておきなさい」と母が言ってくれた。幼い頃から読書は好いており、その他に興味のあることもなかったので、大学では文学部に進んだ。父も母もあまり良い顔はしなかったが、渋々了承してくれた。いざ文学部へと進んでみると、私のような連中が大半であった。本が好きな、どこか闇を抱えた根暗の集まりである。教授は、もっともらしいことを言って文学論や文学史について述べ立てているが、どこか生きることに疲れたような者ばかりであった。私にはその環境が性に合っており、なかなか居心地は良かった。

私は友人に誘われ、文芸部に入部した。各々が読みたいものを持ち寄り、部室として割り当てられた薄暗い地下の教室で、好きなときに好きなだけ、黙って本を読む。そういう部活だった。ただそれだけでは余りに忍びないので、年二回、部員がオリジナルの小説を書いて集めた部誌という、小説冊子を発行し、校内で売った。
無論、私は小説を読んではいても、書いたことなど無かった。とはいえ部費を払っているのに活動に参加しないというのも何だか損をした気分になる。そこで仕方なく、私は一回生の秋に、初めて小説を書いた。短編で、星新一や津筒井康隆のような、SFチックなものだ。私としてはただそれらの作家を真似たものだとしか思わなかったのだが、それが意外に評判になった。次の年の部誌が十分で完売するほどであった。
そして、三年の春、部長になった友人に、「新人賞に応募してみないか」と言われた。私も部誌の評判に浮かれていて、二つ返事で「うん」と言った。そして、やっとの思いで初めて長編を書き上げはしたものの、それを出版社へ送るのには躊躇いがあった。もし、仮に万が一のことがあれば、私は作家としての道を進まなければならないのだ。いくら学内の文芸誌で評判になったとはいえ、プロの世界はそう甘くはないことくらい、私にも分かっていた。しかし、作家として成功し、自分の作品を多くの人間に読まれることを想像すると、何とも言い難い胸の高揚感と興奮を感じた。
そうこうして迷って、結局締切日は過ぎた。私はまあ、仕方ない、と諦め、普段通り過ごしていた。
しかし、数か月経ち、新人賞のことなど忘れてしまった頃。部室へ行くと、友人がすでに黙って椅子に座っていた。そして、私に気付くと、待ち構えていたようにニヤリ、と笑い、「新人賞受賞おめでとう」と言って、封筒を差し出した。出版社からものだ。
唖然とする私に、「君が迷っているようだったから、代わりに出しておいた。原稿は部室のごみ箱なんかに捨てずに、きちんと管理しておかなくっちゃあなあ。」と、何ということもないように、友人はさらりと言った。私はしばらく黙って友人を見つめていたが、ようやく事が理解出来ると、受賞の喜びよりも、勝手に送られたことへの怒りよりも、あっさりと将来が決まってしまったことへのバカバカしさが込み上げてきた。そして、「アハハハハハ…」と、声を上げて笑った。友人も、一緒に「あはっはははっはは…」と変に笑った。
作家になると言った私に、両親は激怒した。父は「お前はいつになったら父さんの意に背くのだ。父さんのことが憎いのか。」と泣き崩れ、母は、「作家でこの家を支えていくことが出来ますか!この親不孝者が!」と怒鳴り散らした。しかし、決まってしまったものは仕方がない。私は黙って両親を説得し、半年で必ず売れなければ、きちんと職を探す、という約束で、作家になることになった。


作家を生業としていくことは、想像以上に厳しかった。まず、読者の目に留まらなければならない。絵などと違って、小説は一目でその価値は見極めにくい。さらに、作品が載る文芸誌には、有名な作家がたくさんいる。その中で無名作家が作品を読まれ、名前を覚えられることはとても難しかった。そして仮に一つ売れても、常に新しい作品、より面白い作品を求められるのだ。それがクリア出来なければ、もう二度と手に取って読まれない。非情で儚い世界である。
しかし、私の担当編集者は熱心に掲載の機会を組んでくれ、作品へのダメだしをやってくれた。出版社の会議室で、夜通し二人作品の方向性を議論したこともあった。その成果もあってか、私は地道に知名度を上げ、単行本の売り上げも伸ばしていった。結婚、出産と人生の大きな節目を迎えても、何とか作品を書き続けた。一度はスランプに陥るも、乗り越えてきた。
だが、娘が大学生になり家を出て下宿し、母が亡くなると、作家を辞めてしまった。書きたくなくなった、それだけである。独り暮らしになり、生活費がそれほどかからなくなったからか、歳をとって描き続けることに体力的な限界を感じたからか、書きたいことは書き尽くしてしまってネタ切れになったのか。どれが原因なのかは分からない。全部かもしれない。また別に、原因があるのかもしれない。とにかく、辞めた。

部屋の掃除が終わると、お腹が減った。
 細麺のうどんを茹でて、ネギと、かまぼこと、天カスと、とろろ昆布を乗せて食べた。栄養は無いが、腹を膨らませるには充分だった。食べ終わって丼を流し台へ持って行くと、今朝の食器を水に浸けたまま放置してあるのに気付いた。自分の他に洗ってくれる者も無いので、洗わなければならない。水道の栓のストッパーを上に上げて、水を出した。そのまま手を出そうとして手を止め、指輪を外した。
 どれだけ経ったろう。この指輪を着けてから…
 
夫は、同じ高校の同級生で、法学部と学部は違うものの、同じ大学だった。話すようになったのは、私が部誌に小説を寄稿して評判になり始めてからだった。授業が終わり、大教室から地下の部室へと移動しようとしているとき、突然声をかけられた。
「ちょっといいいかな?」と彼は優しく言った。「ああ、同じ高校だった…」と私も自然に反応した。「この小説、君が書いたの?」彼は手に持っていた部誌を広げて、私の小説が載っている部分を見せた。「ああ、そうだけど…」私は面倒くさそうに対応した。「とても興味深い。こんな世界観を描けるのはプロでもそういないよ」と不思議そうに、彼は感想を述べた。「何となく、思うんだけど、僕たち、気が合うんじゃないかな。こんな話、好きだよ。僕」彼は笑顔でこう言った。
 それから私たちは、大学で見かけたりすると、話すようになった。彼は誠実で、穏やかではあるが、きちんと自分の中に芯を持っており、そんな性格に、私は惚れた。そうして私たちは付き合うことになり、社会に出て、彼は弁護士、私は作家として落ち着くと、両親の許しも出て、結婚した。それから、娘も生まれた。お互い仕事と家事で忙しい日々を送っていたが、悪くない、理想的な新婚生活を送っていた。そのつもりだった。
しかし、娘が小学校に入ってしばらくした頃。私は、人生の節目として、ベストセラーになる小説を書こうしていた。アイデアはいくつか出るものの、どれもいまいちで、紋々と考え込む日々が続いていた。何とか家事はこなすものの、徹夜での執筆作業が続いた。精神的に、かなり疲れていて、小説を書いてここまで疲弊したことはないと、今でも思う。もちろん、その様子は、夫にも伝わった。
娘が寝静まったアル晩のこと。食器を洗う私に、夫は「ちょっといいかな?」と呼び止めた。私は、手を止めず、振り向いた。
「何?」「大事な話なんだ」夫は、深刻な面持ちで、食卓に着いていた。私は手を止め、黙って向かいの席に着いた。
「離婚してくれ」夫はそう切り出した。
「…え?」と聞き間違いであることを願いながら、私は夫を見つめた。「離婚して欲しいんだ」と、彼は、もう一度、ゆっくりと言った。「…理由を聞か出てくれる?」と私は、必死に平静を装いながら聞いた。
「一言で言えば、君を救えなかったから…」と彼は悔しそうに言った。「どういうこと?」そんな答えで納得出来るわけがなかった。
「僕は、もちろん君を愛しているよ。でも、僕は今の君が苦しそうに見えるんだ。いや、正確に言うと、小説を書き始めた頃から、君が苦しそうに見えるんだ。僕は愛しい君を、苦しみから解放したかったんだ。その原因は、小説だと僕は思ってる」彼は、はっきりとそう言った。
「ちょっと待って。私は好きで小説を書いてるの。なのになんで小説で苦しむっていうの?」口調を荒げて私はそう言い返した。
「君は本当に好きだと思っているのかい?最近君は目に見えて疲れている。そこまでして、何故、君は小説に執着するんだい?君は、ただ好きで小説を書いているんじゃない。生きていく手段として、辛い現実から目を背ける手段として、小説を書くという行動をしているんだよ。
…君の家の事情は知っているし、同情するよ、でも、そんな生き方だめだ!現実をしっかりとみないと。だから、僕は、君に小説を書かなくてもいいように、君が現実をきちんと見られるように、夫として支えていこうと思っていた!でも君はどんどん小説にのめり込んでいく。君が悪いんじゃない。僕が小説を書かなくてもいいような現実を君に見せてあげられなかったからだ!だから僕は君と別れなければならないんだ!」彼は、興奮して、一気にまくし立てた。
「そんなことないわ!私たち上手くやれているわよ。小説を書くのも、本当に好きだから。あなたのせいじゃない。」慌てて私はそう言った。
「いいや、違う。僕のせいなんだ。そして、これは君の為でもあるんだ。作家を辞めて現実を見るのも君のためになる。僕と別れてでも小説を書くなら、それだけの覚悟を持って、小説を書くことになる。それも君のためになるんだ。…僕はどっちでも後悔はしない。君が選んでくれ」そう言って、彼は私を見つめた。考えを曲げる気はないらしい。
私はどう答えていいのか分からなかった。しかし、心では決まっていたのだろう。しばらくの沈黙の後、私は意識せずに、こう言った。
「私は、小説を書きたい…」。彼は、少し驚いたが、「そうか」と静かに言った。そして離婚届を記入し、出て行った。

洗い物が済むと、私は、洗濯をしようと衣服を洗濯機に放りこんだ。最後に入れようとしたシャツが、どこかに引っかかっていて、糸がほつれてしまった。やむなく、裁縫をすることになった。裁縫セットを取り出すと、ウサギなどの可愛らしいワッペンが何枚か出てきた。娘が小さい頃によく使ったものだ。
あれからどれだけ経ったろう。娘がたくましく思えてから…。

私は実家で母と共に、娘を育てなければならなくなった。娘は自分の父親がいないことに気付くと、すぐにぐずりだした。そして、もう帰ってこないことが分かると、すさまじい勢いで号泣した。その日から、娘には辛い思いばかりさせていた。
中学二年の頃、離婚の事情を知った娘は、私を非難した。「お母さんの自分勝手じゃない!」「お父さんのことよりも小説の方が大事なんだ!」「お母さんも小説も、大っ嫌い!」と罵倒される日々である。全て私が勝手に決めたことである上に、離婚以来、私はスランプに陥り、ろくなものが書けなかった。返す言葉もなかった。
 しかし、老いた母が救ってくれた。「あの人も言ってたように、あんたは小説を選んだんだ。覚悟を決めなさい。それに、現実を見ていないって思っているのかもしれないけど、あんたの人生は小説抜きでは語れないだろう。しっかりと現実の一部になっているんだ。自分の腕に、自信と誇りを持ちなさい」と、優しく、しっかりと言ってくれた。私は単純で、小説に今まで以上に、向かい合い、のめり込み、ベストセラーの対策を書き上げた。その真剣な姿を見たからか、大人になったのか、しばらくすると、何も言わなくなった。
 

裁縫が終わると、私は外へ散歩に出た。少し田舎の住宅街を歩いていくと、駅に着いた。丁度電車が来るらしく、踏切のカンカンという音が鳴っていた。ここに来ると、やはり、あのことを思い出してしまう。
どれだけ経ったろう。兄が死んでから…。

私の兄は、私よりも、七つ年上だった。小さい頃の記憶しかないが、無口で、それでも私のことを気遣ってくれた優しい人だったように思う。私の中での兄の姿は、いつも机に向かって勉強している姿だった。父も母も、兄に期待していたのだ。私は幼いながらも、父と母が兄にむける目が、嫌いだった。
私が小学校の最高学年のとき、兄は大学受験だった。父も母も、国公立の難関大学へ行くことを強要した。兄は、その期待に応えようと努力していたが、ただ、あまり要領が良い人ではなかった。
試験当日、兄はガチガチに緊張して、挙動もぎこちなく、家を出て行った。その夜、試験が終わって帰ってきた兄は、魂を置いてきたように、放心していた。私はそんな兄を見て、少し薄気味悪いと思った。兄は、数週間そんな調子だった。そんな兄に声をかけることが、少し躊躇われた。私は、少し兄と距離をおいた。
そして、合格発表当日の前夜。兄は、ふらっと私の部屋に来た。どうしたのかと思っていると、兄は、「俺、受かってるかな?」そう聞いた。私はただ、「さあ、多分ね」と返した。受験の結果なんてどうでもいいと思っていたし、私にそんなことが分かるわけはなかった。どうしてそんなことを聞くのだろう、と思いながら、私は本心を言ったに過ぎなかった。
兄は少し笑い、「ありがとう…」と言って、出て行った。今思えばあの時の様子は変だった。
発表当日、電車で大学へ行った兄は、帰ってこなかった。家で兄の帰りを待っていると、警察から電話がかかってきた。母は受話器を持ったまま、茫然と立ち尽くした。しばらくすると、母は色んな所へ電話をした。父が帰ってきた。駅へ行った。人だかりができていた。帰ると、父と母は、黒い服を着た。私も、よそ行きのスカートを着せられて、出かけた。
兄は、不合格だと分かり、帰りの電車でホームに身を投げたのだ。
 母は、冷静を装っていたが、ゲッソリと痩せた。父は、発狂し、叫びだした。仕事が生きがいのような人であったが、仕事ができなくなり、病院へ入った。車いすに座って、虚ろな目をして、いつも空を見上げている。そして、たまに、声も上げずに、泣いている。

 
 家へ戻ると、疲れて眠くなった。ゆっくりと、思う存分昼寝がしたくなった。寝室へ戻り、布団へ入った。ゆっくりと目を閉じて、考えた。
 今日はやたらとこれまでの人生を思いだす。ひょっとすると、走馬燈というものだろうか。私は孤独だ。でも、それは悪いことか?辛いことか?そんなことはない。私は幸せだ。それなりに生きてきた。孤独なんて、珍しくない。みんな、みんな、人間は孤独なのだ。
そういえば、妊娠している娘が、嬉しそうに、そろそろ生まれる頃だと言っていた。意識が薄れていく中、新しい命の声が、だんだん近くに聞こえ、遠のいて行った。

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