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古代天皇はなぜ100歳を超えるのか
古代天皇はなぜ100歳を超えるのか?
7世紀後半の「日本書紀」「古事記」編纂の際に、古代天皇の時代を大きくずらしたからです。
ではなぜ古代天皇の時代を大きくずらしたのか。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼を隠すためです。
実際、4世紀後半の神功皇后を、干支2巡120年古くして強引に卑弥呼の時代に持ってきてます。
ではなぜ卑弥呼を隠したのか。
卑弥呼が誰か分かれば、その100年前の倭国王帥升が誰なのか分かってしまうからです。
AD107年、倭国王帥升自ら160人の生口を引き連れ渡海し、楽浪で後漢皇帝・安帝への謁見要請をしましたが、その帥升とは、[Shuai sheng]という発音といい、日本の古代王で渡海した痕跡のある人物という観点からも、スサノオ命しかいません。
謁見要請とは跪(ひざまず)き、頭を地につける、つまり土下座です。
残念ながらわが日本の歴史は、スサノオの土下座というショッキングな史実から始まります。
7世紀の朝廷にとって、こんな屈辱的な事はとうてい国史に書けない、だから未来永劫に渡って隠すしかない。
ではどうやって隠したのか。
時代を大きくずらすしかなかったでしょう。
したがって邪馬台国論争は3分で解けます。
とても簡単な仮説「倭国王帥升とは名前の似たスサノオではないのか」で卑弥呼が判明するからです。
江戸時代の新井白石も本居宣長も、この簡単な仮説で卑弥呼はだれかを知ったでしょう。
(平均寿命40歳に満たない時代、1世代間20年で計算)
スサノオ(107年帥升)ーアマテラス
オシホミミ
ニニギ
ホオリ
フキアエズ
イワレヒコ(200年ごろ)━━ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
綏靖
安寧
懿徳━━トヨ津媛
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛もトヨ津媛も住処は今の奈良県御所市です。
繰り返しますが、この事実は、AD107年のスサノオの渡海しての土下座朝貢という、とても屈辱的な日本の古代史を意味します。
だから新井白石も本居宣長も、わざと心にもない九州説を唱え、邪馬台国論争を創ったのでしょう。
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