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そもそも神武天皇は実在か、実在ならどこから来たのか、それはいつ頃なのか


神武は実在だと思います。
根拠は、
① 日本書紀、壬申の乱(672)年の際に大海人皇子(天武天皇)が、高市県主許梅に乗り移った事代主から「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事は、
当時、普通に誰にでも神武陵が知られていたという事なので、
7世紀までに、実在もしない人物の墓を造っていたとは到底考えられないことからも神武は実在でしょう。
② また実在しない人物の年齢が日本書紀で127歳などと、子供にも笑われる年齢に設定することはないと考えられます。
中国の歴史を超えたいほど古くしたいのなら、そして実在しない人物を記載して良いのなら、
60歳くらいで亡くなる天皇を数十人ほど創作し、古さで中国の歴史を超えればいいのに、
それをしていないのは、やはり神武が実在したからでしょう。
③ また、神武東征で、神武軍に抵抗してきた和歌山の名草媛の体を頭、胴、足と三等分し、地元和歌山の人たちはこの哀れな媛様のそれぞれの部位を3つの神社で祀ってきたこと、これはもし神武が実在しないのなら、神武の子孫を天皇とする朝廷に対する侮辱行為に当たり、あってはならない事であり、普通なら弾圧されてもおかしくないのにそうはしていないこと、
これは日本書紀に神武軍が名草媛を誅したと書かれてる事から考えても、7世紀後半当時の朝廷も史実と認識しており、つまり神武東征は和歌山まではあったことを意味すると思います。
④そしてこれが神武実在の最大の根拠でもあるのですが、神武が実在でないと魏志倭人伝に書かれた卑弥呼が解けないことです。
これについては後述します。
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●では神武はどこから来たのか。
おそらく宮崎県日南市だと思われます。
根拠は、当地の、カツオの水揚げで有名な油津(あぶらつ)港の語源が、神武の先妻である吾平津媛の「アヒラツ」だと言われている事、
またそのアヒラツ媛や神武の間に出来た子であるタギシミミを祀る古社もあること(画像 吾田神社)、
この朝敵タギシミミを祀るという行為は、上記の和歌山の名草媛の部位を祀る三社と同じく、
朝廷に対する侮辱や反逆ととらえられても仕方ないのに、それでも日南で祀られてきたことは、
母親のアヒラツ媛と同じく、タギシミミは当地に深い縁がある人物であったからだろうと考えられます。
また「日向国の吾田邑の吾平津媛」を妃としたという日本書紀の記述の通り、
日南には吾田(あがた)という地名が、甲子園にも何度か出場してる日南学園高校の近くにあります。
また日南を流れる広渡川の河口には梅ヶ浜洞窟という神武軍が出立前に滞在したという洞窟もあり(画像2)、九州の中でもこれほど条件がそろっている場所はないであろうことから、神武軍は日南市から出発したと思われます。

梅ヶ浜洞窟



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●では神武東征はいつ頃なのか。
神武東征のような大きな出来事があれば、必ずや考古学的にも大和で大きな変化が見られるはずです。
その大きな変化とは、それまで続いていた環濠集落が終わり、土師器(庄内式・布留式土器)の時代が始まり、
そして前方後円型の墳丘墓が始まる2世紀末しかありません。
1世紀ごろに神武が来た、あるいは3世紀後半に神武が来たという事を云う人がいますが、
その時代に大和で大変化はありません。2世紀末にしかありません。
それは魏志倭人伝に書かれた卑弥呼即位の時代であり、神武の時代でもあります。
二人は夫婦であったから当然です。(画像3)

日本書紀
先代旧事本紀・巻第四地祇本紀
富士宮市富士山本宮浅間大社「和邇氏系図」


ただし「土師器(庄内式・布留式土器)、そして前方後円型の墳丘墓」は神武とは関係ありません、
それらと関係しているのは、神武より先に大和入りしていながらも神武に屈服したとされるニギハヤヒを祖とする瀬戸内海洋集団・物部でしょう。
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●神武とは何者なのか。
女王の婿です。

神武は大和入り後に結婚します。
結婚相手の女性の父親は事代主神、「主神」、エベッさんです。
兄は天日方奇日方命、日本書紀では鴨王(かものきみ かものおおきみ)、「おおきみ」です。
つまり神武は女王の婿(=王配)になったわけです。
それが証拠に、神武には后はいても妃はいません。
これは世界中の王配の鉄則のようなもので、女王の婿が他に子供をつくると、
王の後継問題などでややこしくなるので、王配たるもの、女性は女王一人と厳しく律せられます。

つまり、神武東征とは壮大な婿入りの話です。
大和に女王がいたからです。
そしてその神武に先立たれた女王の姿は、魏志倭人伝に書かれた【年已長大、無夫壻】そのものであり、
彼女のそばには古事記でのちに結婚すると言われるタギシミミがいましたから、
これは魏志の【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】ということではないでしょうか。

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