嗤う側の人間、嗤われる側の人間
嗤う。(わらう)
笑う、ではなく、嗤う。
(めったに使わない言葉だから、書けと言われても書けない)
わたしはものごころついてからずっと、嗤われる側の人間だった。
家庭内では兄弟にバカにされ、保育園、学校では周りの子供たちにバカにされていた。
けれどきっと、広い世界を見ればそんな人は少なくないだろう。
小さかったわたしが日々をどんな思いで過ごしてきたのか、あまり覚えていない。
ただ、つらい思いは日常的なもので、わたしは自分にとってそれは当たり前なことだと認識していた。
その人間関係しか、知らなかった。
嗤われる側の人間は、ときに嗤う側の人間に憧れる。
嗤う側の人間、そのポジションを羨望する。
わたしはずっと、いじめがしたかった。
いじめをしたことが、過去に数回ある。
いじめという言葉が適切なのか、モラハラという言葉が適切なのかわからない。
わたしはわざとやっていた。
相変わらず嗤われる側の人生を歩みながら、こんなわたしと付き合いたいと言ってくれる男性、精神科での知り合いでわたし以上にバカにされている患者さん(要は自分がパワーバランスの強者でいられる相手)、そういった存在を相手に鬱憤晴らしをしていた。
そして、常に弱者であり続けていたわたしは、そのいじめ、モラハラに喜びを感じていた。
どうしてあんなことが言えたのだろう。
どうしてあんな態度を取ることができたのだろう。
そう思うときもあり、そう思わないときもある。
ひとつだけ言えることは、わたしは自分がされてきたことを目の前の相手にそのまましてきた、ということだ。
「こいつもわたしと同じ思いをすればいい」
「こいつもわたしと同じくらい苦しめばいい」
そんな思いがあった。
もう、嗤われるのは嫌だ、という気持ちがある。
そして、もう、嗤うのも嫌だ、という気持ちもある。
けれどわたしは醜い。
ときに親しい友人にさえ、上から目線、マウンティング、そういった言動があるように思う。
心の平穏がほしい、と思う。
世間知らずのお嬢様と思われても構わない。
善意、愛で人とつながっていきたいと思う。
それが叶うときは来るのだろうか。
わたしは可愛らしいおばあちゃんになることはできるのだろうか。
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