石丸元市長の東京都知事選挙・みんな、見るところが違っている

石丸候補・そんな人とは知らなかった

前の記事で「内実が伴なわないこと、そして本人の性格から、早晩、飽きられ、見透かされて、華やかな場面から退場して、本来の迷惑系ユーチューバに戻るのではないか。これが私の見立てである」と書いた。早速、その予兆が、当選後のインタビューで見えた。

え、そんな人とは知らなかった

選挙当日8時のニュースを見て、私は、書斎にこもったので、選挙後のインタビューを見ていない。
インタビューでは、上から目線、質問に質問で答える、質問自体に難癖をつくる等をやったようである。ある意味、石丸元市長の平常運転である。

後から見た。安芸高田市ではこんなもののではなかった

翌々日になって、ネットで話題になっている気がついて、特に、元アイドルのインタビュアーに対する対応がひどいというので、その動画を見てみた。
しかし、安芸高田市ではこんなものではなかった。これを見て、パワハラだとか、え、そんな人とは知らなかったというコメントを見て、率直に言って何をいまさらと拍子抜けした。

前から知っていたというオピニオンリーダーたち

石丸候補の性格や行動は、前から知っていたというオピニオンリーダーもたくさん現れた。知っていたとしたら、なぜ取り上げなかったのかと突っ込みたくなった。

みんな、見るところが違っている。見るのは石丸元市長ではない

石丸元市長の資質や行動に注目が集まっているが、見るところが違っている。見るのは石丸元市長ではない。ずっと書いてきているように、見るのは、石丸元市長に煽られている人たち、ポピュリズムのほうである。

ご本人は、イデオローグではない

これも何度も書いているが、私は、ポピュリズムのイデオローグとしての石丸元市長を心配していない。そこまでの政治思想も政治理念もないからである。人と一緒に行動するのも苦手である。これは4年間、安芸高田市長としての石丸さんを見てきての私の確信である。

政治家、政治屋でもない・メルクマールは人に寄り添えるか

都知事選後のインタビューで政治屋を「政治のための政治を行う。党利党略、自分第一、それらを言っている者、やっている者」と定義したそうである。問いに対して問いに答えるような回答で、いかにも石丸元市長らしい。

メルクマールは、人に寄り添えるかどうか

政治家・政治屋のメルクマールは、人に寄り添えるかどうかである。
政治家は人に寄り添える人である、政治屋は寄り添うふりができる人である。これを基準に、たとえば大阪維新の会の吉村大阪市長を見てみたらどうだろう。
これも何度も書いたが、石丸元市長は、安芸高田市の市民に寄り添うことができなかった。寄り添うふりもできなかった。政治家でも政治屋でもない。
寄り添うふりができれば、元アイドルのインタビューにも、寄り添う答えをしただろう。

ご自身の行動原理は自尊感情

石丸元市長の行動の源泉は、政治信条でも政治思想でもない。強い自尊感情である。
だから、自分より「格下」だと考えると、上から目線で居丈高になる。あるいは、選別し無視するという行動になる。
逆に、自分が到底かなわない「格上」の相手だと、逆に、素直になるのだろう。

その自尊感情による行動が若者たちに受けるのである

日本人は、自己有用感に基づいて行動する。自己有用感は、他者との関係で自分が有用なのか、つまり他者が認めるかどうか、他者から評価されるかどうかで、自分の評価を決める。
日本では、特に若者たちは、組織や年配者、社会の暗黙の規範にがんじがらめで、まわりを見ながら暮らしている。その分、閉塞感が一杯である。価値の相対性や多様性を小さいときから学んできた若者たちにとっては、そのギャップは大きく、相当の苦痛だろう。
ところが、石丸元市長は、自己有用感などは気にしない。自分本位の自尊感情で行動する。自分にできないことをやっている石丸元市長は、ヒーローである。

おっさんたちも応援している

友人から、若者だけでなく、いいおじさんたちも石丸元市長を応援しているといわれた。そうだろう。そうでなければ、こんなに得票できない。なぜおっさんたちも熱狂するのか。
結局は、「いい年をしたおじさん、おばさんたちも、自分たちが社会に必要とされる存在であるのかどうか、自己肯定感がないままに、年齢だけは重ねてしまった」。
そこに、石丸候補の登場である。石丸候補を通して、「自分たちが社会に影響力を及ぼす存在であることを知り、そのための行動に出ることに価値があることに気がついた」。これがいいおっさんたちも含めて、応援するもとなのだろう。
ただ、それが石丸元市長というのは、あまりに残念であるが、石丸元市長は、ひとつのアイテムにすぎず、その意味では、誰でもよいのだろう。
私は、逆に、石丸元市長でよかったと思っている。この間、学び、体制を整えることができる。
きちんとした政治思想や政治行動を持つイデオローグがあらわれる前に・・・。それが私がこのnoteを書く動機でもある。

だから、石丸元市長をつぶしても問題の解決にならない

だから、石丸元市長は、リーダーとしての素質がないと言っても、強烈なファンには届かないのである。共感の元はそこではないからである。
問題の本質は、周りにあわせないと暮らせない社会、年ばかり重ねるが存在意義を実感できない社会、居場所がない社会、そこから生まれる社会の閉塞感や展望の乏しさである。ここを乗り越えないと、石丸問題の解決にはならない。
ようやく日本でも、このままではいけないと危機感を持った政府・自民党が、LGBT法を始め、閉塞感を打破すべく、多様性を認める社会に舵を切った。これは、次に現れるデマゴーゴス「新石丸元市長」の新登場との競争になる。間に合うか。

石丸問題における見どころ

石丸問題の論点

私は、6か月前、この問題をnoteに書き始めたとき、「石丸市長は、ポピュリズムや反知性主義の風を捕まえて、ネット市民をエスタブリッシュメント(議会や新聞社)への異議申し立てに向かせたことが、「成功」の秘訣なのだ」と書いた。
しかし、6カ月たってみて、問題はもっと広がっていて深刻であることを気がついた。
石丸問題の論点は、周りにあわせないと暮らせない社会、自己の存在意義を実感できない社会、そこから生まれる日本社会の展望の乏しさ、閉塞感溢れる社会を背景に広がってきたポピュリズムの広がりと深化に加え、石丸元市長が開発・実践した動画等を使う新たな技術・手法に対して、社会が翻弄され、なす術がなかったという点である。
これは社会全体で早急に取り組むべき課題である。それまでの間、当面は、オピニオンリーダーやマスコミの頑張りが期待される。

オピニオンリーダーがんばれ1

申し訳ないが、元アイドルのインタビュアーの質問は、もうちょっと頑張れたと思う。
例えば、東京都の一極集中の是正を国の立場でなく東京都の立場で行うとしたら、実際、どのように行うのか、具体的に教えてほしいなど、もっと簡潔にポイントをついた質問できたのではないか。
でも誰でも初めはある。ひと頑張りしてほしい。

オピニオンリーダーがんばれ2

オピニオンリーダーたちは、石丸元市長の資質や行動を前から知っていたという。そうだとすると、なぜ、問題にしなかったのか。それは、選挙というレベルで石丸問題を見ていたからである。選挙では、当初は石丸候補は泡まつ候補であり、取り上げるまでもないと考えたのではないか。
しかし、石丸問題の本質は、ポピュリズムの広がりと深化を動画等の新技術を使って、それを安芸高田市で実証したという点である。そこに注目すれば、すぐに取り上げて問題提起をすることになったと思う。

オピニオンリーダーがんばれ3

市井の一老人である私でさえも、このような問題意識や危機感を持つのである。テレビに出て、あるいはマスコミに原稿を書いているオピニオンリーダーならば、きちんと問題を見る目を養ってほしいと思う。ぜひがんばってほしい。

きちんと訂正記事を・がんばれマスコミ

同じことはマスコミにも言いたいが、長くなってしまった。がんばってほしいと思うが、その前に、ひとつだけきちんとやってほしいことがある。
マスコミは、議員から恫喝されたという石丸元市長の言葉を信じ、記事を書き、ニュースで流し、映画を作った。司法でそれは「なかった」と判定されたのだから、それを踏まえた、きちんとした訂正記事・検証記事を出してほしい。気が重いかもしれないが、ここはマスコミとして最低限の矜持だと思う。がんばれマスコミ。

追記しました(7月13日)

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