『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[150]帰路を選ぶ
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第8節 二手に分かれる
[150] ■2話 帰路を選ぶ
残るのは、帰路をどう選ぶかだった。
トゥバに着いて、丁零から同行した案内の二人と別れた翌朝、メナヒムはバトゥに命じて途中までその足跡を追わせていた。二騎は確かにハカスの国に向かった。確かめたバトゥは、何食わぬ顔をして戻り、メナヒムにそれを告げた。だから、それはわかっている。
「おそらく、あの案内の二騎がハカスの仲間とともに我らを追うということはない。
あとは、トゥバの窯にいたテュルク族の長だ。気付いたとは思うが、あの族長は剣の作り方についてはついぞ語らなかった。砂鉄を焼いて鉄にし、その鉄を鋼に鍛えることができると、やり方の一部を見せただけだ。我らは剣ができるまでを見届けたわけではない。
トゥバで鋼を鍛え、さらには鉄剣を作れるようになっているのを秘すために、あの者たちがサカ人に通じ、兵を伏せていないとも限らない。
それに、アルタイの西には、友邦とはいえ油断のならない烏孫が進出しようとしている。もとはそこから出た部族なのだから、そういう動きを見せてもおかしくはない。ということは、烏孫を装って次の単于を狙う匈奴のいずれかの部族が襲ってくることもなくはないということだ」
メナヒムは、そこで、この先どうするかをみなに告げた。
トゥバを出るときに誰もが考えていたオヴス湖の北を回ってテス川沿いに東に進み、ハンガイ山脈の北麓に出る途はもはやない。ならば往くのは、アルタイの山並みに沿ってやや南に下り、その後、沼と湖の間を通って沙漠の北縁を東に向かうという道順になる。
ところがメナヒムは五騎を二手に分ける方法を選んだ。二騎と三騎。道筋はそれぞれに決める。
どちらかが無事に戻れば、鋼作りについて見聞きしたことを左賢王に伝えることができる。それに、五騎を追う者はきっと、二隊のどちらを追うべきかと迷うだろう。
また、ここから先は、一日の道のりにわざわざ二日掛けるという。メナヒムはエレグゼンに向かって念を押した。
「あるときは進み、またあるときは引き返して留まる。とにかく間合いをうまく使え。追う者は急ぐものだ。もし追っ手が来るのならば、急ぐだけ急がせればいい」
さらに、敵が待ち伏せするならばこことここだと、メナヒムは地面に絵を描いて示し、念を押した。
「敵は、砂地に追い込もうとする。決してその手に乗ってはならん。礫漠に留まるのだ。そうすれば、お前たちのウマならば振り切ることができよう」
――おそらく、昔、メナヒム伯父はそうやって敵を追い込んだのだろう。小石の多い土地ならば馬は走れる。砂地でも走るが、人を乗せていては思うようにいかず、囲まれやすい。それでは数に負けてしまう。
エレグゼンは心のうちでそう思った。
アルタイはメナヒムが兵士として育った地だ。土地勘がある。山の形と、川と湖とを目印として示した。大きな岩や木の位置、ここからの日数もメナヒムの頭にはあるらしい。指示し終えて目線を向けると、その通りだというようにバトゥが頷いた。メナヒムが付け加えた。
「決して、岩に印を残してはならない。あれはいつまでも残る。風の神が旅路を護るなど、この旅に限ってはないと思え」
ナオトは、トゥバに出る前の山中で見た、枝や木の皮、古い革紐やくたびれた叩き布の切れ端などで飾った岩の上の奇妙な作りものを思い出した。
「モンゴル高原に向かう隊商の通り道を騙しに使うのはどうですか?」
エレグゼンがそう問うと、少し考えてメナヒムが応じた。
「それもいいだろう。ラクダと馬の往来で足跡と匂いを消すことができる。それに、お前たち二人ならば、ジュンガルに荷を運ぶソグド商人を護衛した後に匈奴に戻る兵と見えなくはない」
そう口にしながらメナヒムは、さらに南に渉って行こうというエレグゼンの企図を見抜いて、苦笑いした。そうとは気付かず、エレグゼンが、
「乗っている馬があまりに立派だから、漢が献じた珍しい品を売ろうと運び終えた、単于に縁の兵士というところだな」
と、軽口を言った。
「ボグド山の北側を抜けて来るときには、バーツァガーン湖の北を通って真東に向かえ。その東、中央の沙漠に入るところで落ち合おう。オンギン川の手前、一番大きな中州が見えるところだ。早くてもいまから十五日後。いくら遅くなってもよい」
「そこなら知っています。近くに烽火台もある……」
「おそらく、今年は水が多い。川を渡って左賢王の支配地を進むときには、五騎揃っていた方がかえって目立たない。東南の方角にある漢の五原からウラーン湖を回って来る敵兵には我らが目を配っておく。
東西二つあるボグド山の峠はどれも決して通るな。あそこはいつも漢兵が見張っている。いいか、バーツァガーン湖を越えた後が一番危ないぞ。決して、気を抜くな」
同じ湖の名を二度口にして、メナヒムが念を押した。しかしメナヒム自身は、別の経路を通って、いまから十日の後には左賢王の営庭に着くつもりでいた。
――オンギン川へは左賢王に第一報を伝えてから向かえばいい。
身づくろいを終え、馬の蹄を確かめて、エレグゼンとナオトの二騎がゆっくりと南に向かった。替えにと、エレグゼンが褐色の斑馬を引いている。
「馬を労れ。ナオトを頼んだぞ」
と、メナヒムが背後から声を掛けた。
時をずらして、残る三騎がそれに続いた。いつ、どの地点で東に進路を変えるかは、一日進んだ後に、二隊が別個に決めることになっている。
それにしても、とメナヒムは考えていた。
――単于からの指示だとは思うが、なぜ我らに右賢王の支配地を回れと命じたのだろう。タンヌオラを越えて南のテス川に出れば行程ははるかに短い。わざわざアルタイを回れというのには何か理由がある。それは何なのだろう。やはり金か? それとも、鉄と武器の搬入路をトゥバ回りで別に確保しようということか?
ソグディアナと結ぶ道筋は長い間に変わっている。それを改めておけということだろうか……?
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