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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[100]冬の牧地に移る

第5章 モンゴル高原
第2節 匈奴の牧地
 
[100] ■2話 冬の牧地に移る
 ナオトがはじめに泊まった屯営とんえいのゲルから、いまいる夏の牧地まで移ってきて二日が過ぎた。あと何日かすれば、冬の牧地に向けてエレグゼンたちの部族の大掛かりな移動がはじまる。
 いつも通りに牧地を替えるだけなのだが、シーナとの間で緊張がとくに高まっている今年は、単于の意向によって移る前に下見をするなど、動きが慎重になった。ナオトは、そのような折りに突然、匈奴に姿を現したのである。
 それは、エレグゼンの伯父おじのメナヒムが属する騎兵集団とそのすべての家族が連動する動きだった。騎兵団は、全部合わせれば五千騎にもなる。その五千騎のうちの一部はまとまり、あるいは要所要所に屯営を置いて散らばり、周囲に目を配っている。
 残りの大部分は、ほどいたゲルや道具類などの荷をラクダや馬に括り付け、または、ロバが曳く荷車に載せて草原を進む。その後にヒツジやヤギなどの畜獣が従い、女と子等が年寄りと一緒になって、ヒツジの群れを後ろから塩袋や古い叩き布などであおりながら付いて行く。
 犬もいる。馬に乗った男女も稀にはいるが、多くは徒歩で、大きく乱れることもなく同じ速さで少し南にある冬の牧地へと移っていく。
 ところどころで、玲羊ガゼールの群れの走り去った跡が道のようになっているところを横切る。しかし、移動する一団が、その道を好都合として従い進むということはなかった。ナオトは後になって気付いたのだが、モンゴル草原に生きる匈奴にはそもそも道という考えはないようだった。ヒツジの群れも馬の群れも、草と土と石の原をわたって行く。

 メナヒムは、他の四騎と一緒に、西の丘の上から一群の移動を見下ろしていた。その五騎の中央にいるのが、合わせて二万騎を率いる匈奴の左賢王サケンオウだった。左賢王の指揮下には、メナヒムがいま目にしている他にあと三つ、同じような騎兵団があった。
 左賢王の支配地と接して、ハンガイ山脈の北のオルホン川からトーラ川流域にかけては匈奴の国をまとめている単于ゼンウ狐鹿姑コロクコがいて、直属の五万騎を麾下きかに従えていた。単于のまだ幼い息子たちが狐鹿姑に付き従っている。
 匈奴の国は、細かく言えば二十四に分かれ、二十四人の長がそれぞれを支配している。しかしおおまかには三つで、匈奴の版図はんとの中央、ハンガイ山脈の北側を単于が支配し、ゴビを中央ドゥンゴと南とに分けるオンギン川の東を単于の異母弟の左賢王が、オンギン川の左岸に当たる南沙漠ウムノッドゴビから西の地域全体を右賢王ウケンオウが見ている。
 右賢王はとくに、漢人に奪われて久しい河西カセイのやや西方からアルタイ山脈にかけての広大な地域を漢の守備隊と対峙たいじしながら護っていた。
 匈奴の国の西の果て、ハミル――哈密ハミ。後の伊吾イゴ――から一つ山を隔てたトゥルクレの地に八角形の堅固な土城を築き、移動することを半ばめた匈奴がその城郭の内に詰めている。この同じ日に、右賢王とその部隊はこの城外に宿営することになっていた。
 このように、騎兵だけでも十万を数えるような大きな集団が、年に二度、場合によってはそれを上回る回数、家族と畜獣のすべてを引き連れて、あるときは南に、あるときは北に、そしてあるときには東西へと動く。

 匈奴は生活に必要なものの多くを自給している。しかし、どうしても外からの供給に頼らなければならないものもある。ヨーゼフがナオトに語って聞かせたいろいろな品々がそうだった。食糧や鉄だけではなく、匈奴の女が欲しがるシーナ焉支エンジ山から来るべにや緑色に光る烏孫ウソンの石もそうだった。
 右賢王の部隊は、匈奴全体が日々を送るのに必要なそうした品々をハミルのバザールなどで揃え、ゴビを越えて匈奴の北の営地へと運ぶ。また、そうした交易を実際にになう西方の商人の行路を兵を配して護る。
 このところ匈奴は、対立している漢の干渉を避けて行動するようになっていた。行き来するソグド商人の数も減っている。そのため匈奴内では、誰もが口にするのをはばかったが、外からの供給は常に不足気味で、とりわけ穀物と武器の欠乏は深刻だった。
 穀類は冬の戦さには欠かせない。戦いが長引けば、ヒツジ、ウシ、ラクダ、馬などの乳に由来ゆらいする食糧や、どうにか保存しているわずかな肉類にのみ頼るというわけにはいかなくなる。
 鉄も不足していた。同じ鉄でも、畜獣に押す烙印にする鉄や革製のよろいの胴部と肩当てを補強する小札こざねの鉄などはまだ匈奴内でどうにかなる。足りないのは、鉄ではあっても作り方が全く違い、テムールとは区別してボルドと呼ばれるはがねだった。このボルドは鉄剣や敵将の首筋を狙うときの幅広のやじり、短刀や手鉾てぼこなどに使う。

 だいぶ前から、狐鹿姑単于と異母弟の左賢王は、鋼はもちろんのこと、食糧をはじめとする物資の供給を、西方、つまり右賢王の裁量に頼りきっていたのでは危ういと感じるようになっていた。
 そのため近頃、東のフヨ国を懐柔かいじゅうして食糧や鋼の供給路を左賢王の支配地の東の先まで延ばそうと画策かくさくしはじめた。それは、実は、ナオトが生まれた国ヒダカとの交易路を開くことをも意味していた。
 冒頓バガトル単于が征服してからのおよそ六十年間は、ハンがいま西域サイイキと呼ぶ地域の二十六の小国は、祁連山キレンザンに至るまで匈奴が支配していた。夏には祁連山の北麓で馬とヒツジを養い、六代前の伊稚斜イヂジャ単于の頃にはそこに王庭を置くほどだった。
 ところが、いまから三十年前に漢の劉徹リュウテツ――通称は漢の武帝――という王が霍去病カク将軍の軍団をその地に送り込み、戦さに敗れた匈奴は河西カセイと祁連山の牧野を失った。
 いま、匈奴の右賢王の支配が及ぶのは、漢人が河西回廊カセイカイロウと呼ぶ黄河から北西に延びた細長い地域の西の境から先だけだった。そこからなお西に行ったイリ川の流域には烏孫ウソンがあり、さらに進めば、古来、ペルシャと呼ばれ、ソグド商人が活躍する広大な土地がカスピの海の先まで広がっている。

 烏孫の西、バクトリアの地には大月氏ダイゲッシという国がある。ヨーゼフが旅立ったところだ。その国に住む月氏ゲッシは、かつて、冒頓とその後を継いだ老上ロウジョウ単于とが西にった人々で、いまは胡人こじんと交じって豊かな国を営んでいる。

 狐鹿姑コロクコ単于は、いま、河西回廊中の要地である酒泉シュセンを攻略しようと構想している。自らはボグド山を回って北から攻め入り、西から来る右賢王と結ぶ。そのため狐鹿姑単于は、牧地の移動を終えたところで左賢王と右賢王を二十四の長とともに王庭に集め、考えを聞くつもりだった。
 最後に決めるのは単于自身だが、しかし、いまの単于の最大の特長は、大きな耳を持っていることだった。誰であれ、自らのゲルに招き入れた者の話には熱心に耳を傾け、その後、ときを掛けて熟考し、さらに重ねてみなの意見を求めて、そうした上で全部隊のこの先数か月間、あるいは数年間の動きを決める。
 決めるまでには時を掛けるが、いざいくさと決すると、全部隊をまたたく間に動かす。そうした軍事行動がはじまると、女と子等は男どもに負けず、先を争うようにして次の日の宿営地を目指す。
 そうなれば、それまで数か月間の小川のほとりの平穏な遊牧モトル生活は、まるでなかったかのように人々の記憶から遠ざかる。そのときはただ、単于とその周囲が決めた計画の一部となって、匈奴はみな戦さによって得られる財貨を目当てに行動する。
 戦いの結果得られるすべてのものが、文字通り、獲物になる。それには家財や家畜だけでなく、奴隷も含まれていた。勝てば奴隷を得る。しかし敗れれば、自らと家族は首と両手首にかせした奴隷として、敵に引いていかれる。
「戦さには決して負けるわけにいかない」
 男も女も、匈奴ならば誰もがそう自覚していた。

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