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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[133]タンヌオラの北の原に向かう

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第2節 トゥバへの道

[133] ■2話 タンヌオラの北の原に向かう
 一方、「さらば」と丁零の族長に声を掛けて発ったメナヒムは、馬上でさまざまに考えを巡らせていた。
 今朝けさ、次の訪問地を知ったとき、久しぶりに口にした昨夜の牛乳酒のアルヒがまだ効いていたか、ふと、自分が育ったタンヌオラの北のふもとに広がる草原を想った。懐かしいというのとは違う。いよいよ来たかという感覚だった。

 ――自分は確かに匈奴だ。匈奴の戦士だ。しかし流れている血は、昨日エレグゼンが語っていた通りにイスラエル人のものだ。わしの顔付きは匈奴とは違う。弟を失ってからは、しかし、できるだけそれを考えないようにして生きてきた。
 匈奴の中には、モンゴル人ではないテュルク族やペルシャ人などの胡人が大勢いる。我らの同族もそうだ。これから行くトゥバにも同族が多く住む。これもエレグゼンが、道々、ナオトに語っていた通りだ。匈奴になりきろうとして、これまでわしは敢えて目を向けないようにしてきた……。
 単于が求めるのはてつ、なかでもはがねだ。ソヨン山脈の近くにはその産地が散らばっている。そこに住むのはテュルク族や胡人だ。トゥバもその一つだ。
 タンヌオラの北の草原は、北の湖バイガルからアルタイにかけてをおさえるにはどうしても支配下に置かなければならない位置にある。単于は、そこの支配を確かなものにしようとしている。それに、なんといってもトゥバには金が出る。
 ボルド製の武器は、もし我らが自ら作るのは難しいとなれば、ソグド人を介してきんあたいにソグディアナから運ぶしかない。金を産するトゥバはその意味でも大事な支配地だ。
 いま、ソヨンの南麓ははっきりと匈奴だが、ソヨン山脈の北側とその先にはまだ服属していない部族が少なくない。
 小さな部族それぞれは恐れるに足らない。しかし、こうした部族の背後には、古くからモンゴル高原とその北の広大な地域に広がって住むサカ人がいる。これが乗り出してきて、小さな部族をまとめるといったことにでもなれば厄介だ。匈奴は、前と後ろに敵を抱えることになってしまう。
 さらには、あれほど北に位置するにもかかわらず気候の穏やかなハカスがある。あそこにいる堅昆キルギス人もテュルク族だ。この二名の案内の兵がそうだ。わしが弟のカーイとともに右賢王の部隊に入った当初は、アルタイからソヨンにかけて暴れ回っていた。ハカスにも襲撃を掛けたことがある。あの者たちは侮れない。
 あの頃、キルギス族には、定住し、細々とだが一年を通して鉄を焼いている者たちがあった。いまでは、漢人と胡人を集めて、当時よりももっと質のいい鉄を作っていると聞く。おそらくは、トゥバと同じく、間もなくボルドを作るようになるだろう。いや、すでに作っているかもしれない……。
 狐鹿姑コロクコ単于の下にある全部族に鉄製の武具、とくにやじりと鉄剣と槍の穂先を供給しているのは、みなはそう信じているが、北の湖バイガルの丁零族ではない。それを我らは、昨日きのう、この目で確かめた。
 トゥバからソグディアナまで、さまざまなところから集めてきた鉄製の武具を、匈奴の兵は思い思いに使っている。この鉄剣や鏃の調達を確かなものにして、すべての兵に行き渡るようにしなければ、漢と本気で向かい合うことなどできない。そう単于はお考えになったのだろう。
 黄金とともにと呼ばれるアルタイの地とそこに住む民は、古来、単于が直接支配してきた。だが、万事に付けて慎重ないまの単于は、古くからこの地で鉄を作るテュルク人が、烏孫ウソン大月氏ダイゲッシなどに鋼で作った強力な武器を流しはじめるのではないかと恐れている。
 昔、そのようにやっていたのだから、いま同じことをしてもおかしくはない。それはそうだ……。
 しかし、まさか、単于自らが出向いてそれを詮議せんぎするのははばかられる。そこで、後継者である左賢王のもとから、信を置くことができて、腕に覚えのある者たちを少数送り、鉄剣などの製造と運び出しを制しておこうと決めたのだ。
 その上でさらに、鉄剣はやはり匈奴には作れないとわかったときに備えて、トゥバの金についても探らせようと考えたのだろう。その役目が胡人である自分に回ってきたのは、当然の成り行きだと思う。いまの単于がはたして知っておられるかどうかはわからぬが、わしはそのトゥバで育ったのだから……。

 千々ちぢ巡るメナヒムの想いを余所よそに、馬はバイガル西のなだらかな斜面を上りはじめていた。

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