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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[109]シルと名付けた馬

第5章 モンゴル高原
第5節 ナオトが語るヒダカ
 
[109] ■2話 シルと名付けた馬
 それからしばらくして、だいぶ慣れたなと見て取ったエレグゼンは、自分の三番目の友だという褐色の馬をナオトに貸した。不吉だからと、エレグゼンの部族は馬に名前を付けないという。しかし、そんなことを知らないナオトはその馬をシルと呼んだ。シルは、まだ小さいときにナオトが飼っていた犬の名だ。
 シルに乗るナオトは、エレグゼンが一番の友だという黒毛にまたがって駆けて行くその後を、を置かずにどうにか付いて行くまでになった。エレグゼンの黒毛の方には勝手にゴウという名を与え、そう呼んだ。

 遅れまいと付いていくとき、ナオトは競っているのではなかった。ただ、エレグゼンのように馬が乗れるようになれればと、前を駆ける匈奴の友から学ぼうとしていた。だから、めようと自分から言い出すことは決してなかった。
 日があの岩山のいただきに触れるまでと決めてシルとゴウとを競わせる二人に、はじめ面白がって付き合っていた若者たちの数は次第に減り、そのうちに一人もいなくなった。ここまでという際限がないからだ。あの岩山が、次には遠くの山になり、また別の丘へと移る。馬の疲れもひどい。これでは付き合いきれないと、そのうちにみな、二人の相手はしなくなった。

 ただ、ザヤだけは違った。時折り、遠出に付いてくると、顔も姿も、気が違ったようにして二人を追い掛けた。そのうち、ザヤを気にしてときどき後ろを振り返っていたエレグゼンの方が少し怖くなって手綱を緩める。
 するとザヤは、馬のくび近くに顔を寄せてしがみ付き、髪を振り乱しながら、しかし顔だけは涼しげに装って二人の脇を駆け抜けて行く。そういうときナオトは、心底楽しそうに笑った。
 鹿毛かげのシルは、短い走りの速さではゴウに勝てない。戦場で先陣を争うエレグゼンがゴウを好んで使う理由がそれだ。
 しかし、シルはまれに見る賢い馬で、ナオトのり負けたくないという気持ちを推し量るようにして走りを変える。しかも、自分の脚力の質をよく知っている。起伏のある草原の、いくつ目かの上りに差し掛かると、ときおり、ゴウをはるか後ろに置き去りにしてみせる。ゴウの速い走りがいつまでも続かないと知っているのだ。
 それに、おそらく、シルは他馬に比べて心の臓が強い。自分自身、足に自信のあるナオトにはそれがよくわかっていた。
 日の入りに駆け比べを止めて両馬が歩み寄ると、その違いはいつも歴然だった。シルは息切れがしない。ただじっとたたずみ、耳を横に向けて、なにもなかったかのように近くの草をんでいる。そのさまが憎らしいと、シルの友であるはずのエレグゼンが言う。
「その鹿毛かげはまるで……、そうだお前だ。ナオトのようだ」
 と、エレグゼンが真顔でそう言ったことがある。ナオトも、そうかなと思う。シルのたたずまいは、何か、自分のようなのだ。

 三人で遠出した日、まだ陽のあるうちに営地に戻った。小川近くに棒を二本立てて、それに二ひろほどの長さの麻綱が渡してある。その綱に手綱を結んで、夜の間、馬をつなぐ。牧場まきばもあるが、少し離れているのでナオトはこちらを好んだ。
 水辺まで進むと、ナオトはひらりと降り立ち、シルに水を飲ませた。その水の冷たさに、ふと、フヨの川原でのドルジとの長い会話を思い出した。
 ――ドルジはどうしているだろう……。もう少し日が高かったら、あの日のドルジがしていたように、シルを川で洗ってやるのだが。
 水浴びは次にしようと決めて塩をめさせ、飼いを使った。
 汗がひどければヒノキを削ったヘラを滑らせて丁寧ていねいに落としてやるのだが、今日はそれほどでもないので干し草を使った。かたわらのかごから大きく一掴ひとつかみ握り、シルのくびから胸元へ、背から腹へ、そして最後に脚をゆっくりとこすってやった。四つのひづめを一つずつ触って確かめて、それで終わりだ。
 ナオトは、エレグゼンに教えられたことを忠実に守り、しかし、少しだけ念入りにやる。いつも表情を変えないシルもこのときばかりは気持ちよさそうに目を細め、頸を伸ばして頭を持ち上げ、じっと動かない。

 馬の世話を終え、おのれに与えられたゲルまで戻ったナオトは、外で火をいじっていた。伯父のゲルにザヤが無事に戻っていると確かめた後に、エレグゼンがやってきて、
「食事はまだか?」
 と、腰を下ろしながら訊いた。
「ああ、まだだ」
 と頷いたナオトが、小さな炎を見つめながら静かに語り出した。
「ヒダカには、いろいろとヒダカのやり方があって、昔からずっとそれを続けてきた。
 この火起こしも、粘土で器や道具を作るのも、食事も、使う椀も、狩りも、漁も、何もかもがそうだ。一人でやる狩りもあれば、みなでやる漁もある。そうしたやり方を代々引き継いでこれたのはいったい誰のおかげだろう。ヒダカを離れて、吾れはそんなことを考えるようになった。
 そして今日、吾れはあることに気付いた。はっきりとわかったのだ。それはヒダカの女だ。ヒダカの女がこうしてもらいたいと思う。ヒダカの男はそうと察してそれをやる。だから何百年も続けてこれたのだ。
 ならば、匈奴はどうか。たぶん匈奴も同じだ。匈奴の女がこうしてほしいということを匈奴の男が従ってやる。だからいまの匈奴がある」
 匈奴言葉を少し混じえたソグド語の、ナオトにしては珍しく長い話だった。
 エレグゼンは身動みじろぎもせずに聞いていた。そして考えた。しかしその中身は、ナオトとは少し違っていた。
 ――なるほどそうか。ナオトは、ここに戻ると足を洗おうと馬と一緒に川まで下りる。手も顔も洗う。寝て起きたときもそうだ。だが、吾れはやらない。匈奴にそのような習慣はない。ヒダカにはあるのだろう。いまナオトは、そういうことを言っているのだろうか。それとも、もっと別のことか……?
 ナオトは、なおも火をいじっている。
 ――我ら匈奴の男は、母と娘と愛する者と、つまりは、匈奴の女が喜ぶことをやる。単于ですらそうだ。周りの誰の言葉よりも母の言うことをよく聞くという。我らが敵を殺して持ち物をすべて奪ってくるのは、何のことはない、女に喜んでもらうためだ。そのことか?
 エレグゼンはそうも考えた。しかし、考えたというだけで、それをナオトには話さなかった。もし、そのまま口にしたら、ナオトはこのモンゴルを去ってしまうと、ふとそんな気がしたからだ。

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