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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[192]緒戦

第8章 風雲、急を告げる
第3節 オンギン川の戦い

[192] ■3話 緒戦
 李陵将軍の策をれたものか、単于は、これまでに漢の将軍たちが渡ったことのあるオンギン川のいくつかの渡河点に兵を配し、終夜、火を焚かせた。中州が一つ、半ば水に没していた。それを横目で見て確かめたメナヒムは、左賢王の陣に戻りながら呟いた。
 ――今年は、やはりいつもの年よりも水が多い。渡るのは、歩兵にはきつかろう。

 ハンガイ山脈に発し、山塊を避けて大きく曲がりながら南流するオンギン川は、この辺りではほぼ南北に流れている。
 その川の東岸、一番大きな中州を正面に置いて、右後方に単于の軍が、左には左賢王が布陣している。そこを起点として、それぞれの騎兵団が北から南へと展開している。
 そもそも、この川には水が少ない。渡るだけならばいたるところで渡ることができる。しかし、水が多い今年、渡った後の備えまで考えると、渡河点は五つに絞られる。
 百人隊四隊を指揮するメナヒムは、左賢王の布陣のやや南寄り、北から四つ目の渡河点を選び、その東西両岸の砂堤つつみの陰に岩場と草むらとを求めて兵を隠した。川向こうに配した二百騎には息子のバフティヤールが混じっている。川のこちら側にも百騎を伏せ、残る百騎は手元に置いて自ら率いている。

 東ボグド山の北斜面から東にかけて集結した漢の大軍団は隊列を整え終わった。匈奴の斥候が報じたのはその直前の動きだった。
 自らが率いる兵を観閲する漢の大将軍の目には、オログ湖越しにイフ・ボグド山の三角の高いいただきが見えている。いま、ふもとまで下りて東に行軍し、東ボグド山脈のミャンガンヤマール山が真南に見えたところで北東に向かえば、五日後にはオンギン川の川筋がゆるやかに曲がるところ、漢軍内で匈奴河と呼ぶばく中の広い川床に出る。
 日暮れ前。漢の将軍は渡河点まであと十里余りの位置に陣を張り、兵に糧食を使わせた。そこここに煮炊きの煙が上がる。星のない夜は、静かにときを刻んでいった。

 翌早朝。辺りのこいしを濡らす薄い川霧を衝いてときの声が上がり、漢の将兵が雄叫おたけびを上げながらオンギン川に向けて進軍をはじめた。
 これを見た見張りの匈奴騎兵が烽火のろしを上げると、ほどなくして、川の西岸に出張でばって警戒に当たっていた匈奴前衛ぜんえいの騎兵団が迎え撃った。漢の左翼軍と正面軍の進路を縦横に走って混乱させ、多数を倒したが、数で大きく勝る漢の軍団は委細いさい構わず、縁取ふちどりのある赤い旗やのぼりひるがえして押してくる。
 匈奴の前衛は次第に押され気味になり、川を東に渡って、友軍の陣に戻りはじめた。それを追う漢兵は流れのために少しずつ南に寄って行く。そしてそこは、前日、メナヒムが選び、待ち構える地点だった。
 川向こうに置いた二百騎は、豪胆で知られる二人の百人隊長が率いている。大声でばいながら、すぐ先を川に向かって殺到する漢の大軍団を目だけで追い、人馬はぴくりとも動かない。
 匈奴軍の定法に従えば、ここは素早く退いて漢兵を渡らせ、後を追わせて、先に見える左右の岩陰に伏せた兵によって叩くところだ。匈奴前衛の動きはそれに従ったものだろう。
 しかし、いま左賢王の陣にあって献策を許されたメナヒムは、全軍を励まして川の東岸に踏みとどまらせ、弓矢を使って漢兵の渡河をできるだけ遅らせるようにと念を押して、手下てかの百騎とともに水辺に急いだ。
 厳しい顔付きに隠れてはいるが、左賢王は、渡河中の敵を逆に押し返すことに、いわば快感を覚えているようだった。去り際のメナヒムは、それを見落とさなかった。

 漢の将軍は、そもそも、川を渡るのに匈奴からの大きな抵抗があるとは考えていなかった。
 ――いつもと違う。川は渡らせて、あの山裾やますそ伏兵ふくへいに弓射させるのではなかったか?
 そのような構えをとっていた将軍は、側近から「正面軍の真ん中が破られようとしています」と耳打ちされると大いに動揺し、右翼に配していた備えの歩兵団を正面に回すようにと伝令を出した。
 それを受けて、漢の右翼軍が前の持ち場から離れ、川を渡りはじめた。
 メナヒムは、その最後尾ののぼりが動き出すのを待っていた。「続け!」と声を掛けると、つつみの陰に控えていた百騎を率いて勢いよく川床に踏み入った。
 目指すは漢の右翼軍の先鋒。渡河点の深さは事前に調べてある。「フラー!」と大音声だいおんじょうおめきながら水飛沫しぶきを上げて前を往く百騎に、残る百騎が遅れまいと続いた。
 これら二百騎は、弓矢は構えても、馬上にあるしょう以外には射ようとしない。間合いを取り、馬の脚にものを言わせて漢の本隊と右翼軍との間を駆け抜けた。強く速い匈奴の戦馬の特徴を生かした、奇襲といえば奇襲だった。

 エレグゼンは、群を抜いて速いゴウの馬速によってその先鋒を務めている。漢兵が射掛けてきても、それをはじき、けては西岸を目指す。
 ――なにぃ、匈奴兵が返してこない?
 漢の将軍はいまだかつてこのような戦法に出会ったことがなかった。漢の正面軍と右翼軍とは次第に入り乱れ、そこを目掛けて左賢王の右翼が弓を引き絞った。川向こうから引き上げて東岸に散開した匈奴の前衛軍は、輜重しちょうの兵から予備の矢筒を受け取り、左賢王の軍に加わる。
 川は思ったよりも深い。水と矢と……。重い装備の漢兵を、突然の恐怖が襲った。それが集団に拡がる。匈奴軍が放った矢衾やぶすまを背に、漢の軍団は列を乱して川中を後退しはじめた。
 しかし退こうにも、背後ではメナヒムが伏せておいた二百騎が向こう岸を駆け回り、あるいは、矢を継いで待ち受けている。素早く川を渡り終えたメナヒム以下の二百騎がそれに加わった。

 多くの漢兵がいまだ中州を越したところに残っており、水はすでに血で赤く染まっている。ようやくにして西岸に辿り着いた者や、中州を南北にはしる者は、馬で追うメナヒムの兵の騎射に倒れた。
 南からは、川の両岸を左賢王の左翼が北上して迫る。漢軍のうち数隊が機を見て北に逃げ延びたが、これは単于の本隊と対峙することになった。
 こうして、戦場は大混乱となった。追う匈奴騎兵はいまは矢をすべてち尽くし、逃げる漢兵の背を容赦なく槍で貫き、肩や首に剣を打ち下ろした。
 エレグゼンは、何かに取りかれたように矢が尽きるまでて、ほとんど矢の数だけ漢兵を倒した。いまは、血に汚れた手鉾てぼこからあぶらぬぐいながら、恐ろしい形相で馬上から辺りをにらみつけている。そこには、味方であるはずの匈奴騎兵すら敢えて近づこうとしない、いつもの戦場のエレグゼンがいた。

 戦いが終わり、血の臭いが漂う戦場で、「よくやった」と左賢王が兵に声を掛けていた。しかし、全軍引き上げのかねはまだ鳴らない。
 馬の蹄の音がとどろく中で、逃げる敵兵を追う匈奴騎兵の喚声と、とどめを刺されたときに発する不気味なうなり声とが近くに遠くに重なり合って聞こえている。これに混じるうめき声やすすり泣く声が、漢と匈奴といずれの兵のものであるかは知れない。
 両方の岸と中州に、漢兵のおびただしい死体が打ち上げられていた。幾多ののぼりと赤い旗が中州の砂地に掛かり、あるいは揺れながら水間みづまに漂っている。いつになく水の多いオンギン川を、黒地に金字も鮮やかに、漢の将軍旗が岸辺を探るようにゆっくりと流れていった。
 なすすべもなく倒れた漢の兵と、目を掛けてきた配下の兵数名の死を目の当たりにしたためか、オンギン川から帰陣したメナヒムの顔に幾ばくかの憂いの色が見えた。
 だが、仲間同士で手当てしはじめたとみるとすぐにいつもの厳しい表情に戻り、左に控えていたバトゥに命じて漢兵の鉄剣と矢筒を集めさせた。輜重隊の荷車はすでに、メナヒムの指示によってすぐ近くまで寄せていた。

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