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神田川の秘密31 の(2) 椿山荘からの眺めはまた格別だ。明治の初期、山縣有朋がここに立っていた。

三十一の2 椿山荘からの眺めはまた格別だね、明治の初頭には山縣有朋がここに立っていた

椿山荘正面入り口

 少し汗ばむほどの気温となって、ハンカチでも出そうかという頃合い、椿山荘に着いた。その昔、友人の結婚式があって一度だけ来たことがある。建物はリニューアルされたのか立て替えられたのか、三重塔はそのままの感じだが、記憶に残っている全体のイメージとは随分違っていた。 

 椿山荘は黒田豊前守の下屋敷跡を維新後山縣有朋が譲り受け、別邸にし、椿が群生する台地だったことにちなんで椿山荘の名前をつけたそうだ。上総久留里藩(君津市)は9代藩主黒田豊前守直養(ナオタカ嘉永2年1849~大正8年1919)で終わっているが、直養の時代に手放した敷地だろう。

椿山荘の建物の中から神田川方向を眺める

嘉永6年、尾張屋清七(金鱗堂)版の江戸切絵図を見ると敷地の南側は神田川に接している。今は隣接している蕉雨園の土地には、江戸切絵図では本多丹下、黒田五左衛門、松平丹後守、他8名の所有者名が描かれている。その他8名の名は牛込恒次郎、新家鉄作などで、名前から想像するに旗本・御家人だったのではないか。
なお、江戸時代、胸突坂の入り口の左右は八幡宮水神社の敷地で、胸突坂は神社の敷地を真っ二つにしている。芭蕉庵は嘉永6年の絵図には存在していない。

椿山荘から歩いて3分
神田川に降る急坂は階段道路

 嘉永の切絵図を見ると黒田豊前守の下屋敷の隣には蓮華寺というお寺があって、その傍から神田川は二筋の流れになっている。上の部分が神田上水、南側を流れる部分が旧江戸川になる。ここが関口大洗堰で、神田川は井の頭池から大洗堰までを「神田上水」、大洗堰からJR 飯田橋駅側の船河原橋までを江戸川、そこから柳橋までの区間は外濠と呼ばれていたのだった。
 井の頭池から隅田川までの全てを神田川と総称するようになったのは、昭和40年(1965)の河川法の改正以後だから、川旅老人が「神田川、神田川」と呼んでいる名前になったのは比較的最近のことなのだ。

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