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神田川・秘密発見の旅 後編36 筋違橋の謎々は解けるだろうか・・頭が痛い。

後編36 筋違橋の謎は解けるだろうか・・頭が痛い。

最初の疑問。
 橋と門とはどちらが先にできたのか・・・?
「江戸切り絵図と東京名所絵」(白石つとむ編 小学館)の東都下谷絵図では門の名を「筋違御門」としていて、この地図では門と橋とが一体になっていて、江戸城を背にし、神田川を筋違橋で渡り、鍵形の道を少し進んだところに「此ノ道下谷御成街道ト云」と説明書きがある。
(Wikipediaの説明――門は加賀藩主前田利常によって寛永16年に完成、橋は寛永
          20年間・1624〜1644年だったと言われている)

 御成街道の突き当たりは下谷広小路で、三橋を渡ればそこは東叡山寛永寺になる。つまり御成道はここ「筋違橋」または「筋開門」が出発点(起点)で、将軍が御成道を通って寛永寺や日光東照宮に参詣する場合、筋違門と筋違橋とは一体でなければならない。門だけあって橋がないのは考えられない。橋は少なくとも門と同時に架けられたかそれ以前に架けられていたと考えるのが自然だ。
 江戸図を見ると日本橋、江戸橋、一石橋、京橋などには門はなく、鍛治橋御門、数寄屋橋御門、桜田御門、牛込御門、四谷御門など門のあるところには必ず橋がかかっている。唯一、赤坂御門には橋がない。ここは濠が途切れる場所で、濠と濠との狭路の先に門があるためと思われる。

御成道の説明看板は昭和版が存在する

 現代の地図を細かく見ると、旧中山道は日本橋を出発すると、魚河岸、JR神田駅、須田町を通過して筋違門(の有った所)を右手に見ながら昌平橋で神田川を渡っている。この場合、御成道と中山道が筋違橋で交差することにならないが、筋違橋が存在していた江戸の時代、中山道は昌平橋ではなく筋違橋で神田川を渡ったのかもしれない。とはいえ、御成道は神田川を挟んで門とは反対側、橋の向こうになるから、「交差」しているとはいえず、「接して」いた程度だという感じがする。

 千代田区の説明看板には、昭和51年版があって次のように説明している。
「御成道:御府内備考に「御成道、筋違広小路の東より上野広小路に至るの道をい
     う」とある。

「筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流五十メートルのあたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口につうじていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。
 江戸時代筋違の橋北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅(ダイダイモチ)で売り出した有名な店もありました」

現在の看板との微妙な違いが見て取れる。

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